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  • 中野重治における政治と文学

    木村 幸雄

    日本文学 14(11), ????, 1965-11

  • 中野重治--その抒情と批評の道行き

    伊藤 邦彦

    日本文学 14(5), ????, 1965-05

  • 「林房雄論」についての感想 : 五月号評(ばっく・みらあ)

    島田 昭男

    日本文学 13(10), 741-742, 1964-10-01

  • 転換文学論 : 大正中期から後期へ

    小林 茂夫

    日本文學誌要 15, 47-56, 1966-06-30

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  • 林房雄の転向

    三枝 康高

    日本文学 13(5), 355-365, 1964-05

  • 討論要旨(2)(<特集>国語教育の現代性)

    松本 議生

    日本文学 13(4), 252-253, 1964-04-01

  • 安田武著, 『戦争体験』, 未来社刊, 四八〇円

    相馬 庸郎

    日本文学 13(1), 67-70, 1964-01-01

  • 新国学と戦争責任の問題

    三枝 康高

    日本文学 7(1), 63-72, 1958-01

  • 「むらぎも」論

    三枝 康高

    日本文学 5(10), 686-695, 1956-10

  • 民衆の作家宮本百合子

    草部 和子

    日本文学 5(6), 408-415, 1956-06

  • 昭和文学論戦前の文学

    平野 謙一

    学報 2, 56-83, 1957-12-25

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  • 社会意識の測定(社会福祉学・児童学・公衆衛生学)

    園 直樹 , NAOKI SONO

    西田幾多郎博士は, 「善の研究」で次のように述べている。「行為というのは, 外面から見れば, 肉体の運動であるが単に水が流れる石が落つるという様な物体的運動とは異なって居る。一種の意識を具えた目的のある運動である」と。〔さて行為と行動の相異について, 例えば橋本真氏の, 「社会的行為に関する考察」(同志社大学人文学第四輯)に譲り, 筆者には, 行為と行動の違いは, 重大な事ではない。何故ならどちらも意識を具へた目的のある運動である。以下, 行動という言葉で述べる〕。〔又, 橋本氏は, 意識と社会意識の違いも述べられるが, どちらも意識ということに変りはないので, 以下文中で意識も社会意識もその文章の状況に応じて適当に述べることにする〕。さてズナニエツキイは, 行動の対象として価値という概念を考えたが, タマスは, 価値に対立する個人の意識過程を「態度」(Attitude)と呼んだ。態度は「社会生活に於て個人の現実の又は, 可能の行動を規定する個人意識のプロセス」である。(W.I. Thomas and F. Znaniecki, The Polish Peasant in Europe and America 1918 Vol. 1 p. 21)態度は価値をもって代表される社会と個人とを結びつける概念である。次にタマスは, 態度と価値の両者の動的関係を示すものとして状況の規定を使用した。これは, 与えられた事実に対する個人の判断及び決心である。状況の規定は, 行動を規定するものは, 与えられた客観的事実ではなくして, 個人がそれを如何に解するかという主観的過程であるということを認識したところから生れた概念である。If men define situations as real, they are real in consequenceとタマスは書いた。この言葉と西田博士の言葉は同義語であると解せられる。タマスによれば社会学の目的は「行動について記録しうる一般づけを獲得すること」である。行動には, 「合理的なもの」と「見たところ不合理なものseemingly irrationalities」とがある。或いは, 制度的手段に依拠する限り「合法的, 順応的な行動」と「逸脱的行動」(Deviant Behavior)とがある。そして一切の行動は, 意識を具えている。例えば, 自殺なる行動には, 自殺したい-自殺するという意識がある。さて文化の概念は, 後述することとし, 「文化目標」を肯定する意識は, 権威を認める意識であり, 権威を否定する意識は自由に憧れる意識である。例えば労働を肯定する意識は, 権威の意識である。〔「労働は社会生活の基盤である」。「権威は, 実は社会は, 文化の基盤である」〕。それとは逆に「社会保障を設定しようとする人間性と民主政治を信頼しない者は, ノラクラ者の国a nation of loafers」へ行きたいと思う意識をもつ。この意識は「一切の拘束の完全な欠除」即ち自由の意識である。吾々のうち, 或る者は, 権威の意識が, 或る者は, 自由の意識が, 右の二つの意識の比較的に強い様である。そして権威意識の強い者は, 労働や一夫一婦制の結婚に憧れたり, 誇りが強くて, 恥辱を蒙ったと思う場合, 当面する人物を毆打する事も見出される。自由意識の強い者は, 川に遊曳する家鴨をうらやましく思ったり, 放浪が好きな様である。さて例えばパチンコ店に於て, 玉の買い方, 並びに玉の使用の仕方は, 人さまざまである。それは何故であるか, 行動様式の違いは, 意識の違いに由来する。「何処に意識(心理的生産)の存在的基礎が置かれているか」(Where is the existential basis of mental productions located?;マートン後述の本211頁)。それは各個人の頭の中である。しかし頭脳の解剖や, 脳波のグラフに関する考察は筆者の分野ではない。それで意識(原因)⟶行動(結果)という西田氏やタマスの見解より, 「見える行動から見えない意識を発見すること」をやりたい。この考えは, 例えばマルクスが, 「ブルジョアは彼のBildに似せて世界を創る」(共産党宣言)という時, 彼のBild(観念)は, 彼のBild(表現, 姿)によって判ると理解することである。即ち, パチンコ屋で金を多く使い損をしてもしよげずに引揚げる人をブルジョアと考えるのである。音楽にドからシまで7つの要素, 将棋に8つの要素がある。吾々も意識を複数に分ける。しかし7つや8つに分けると, 筆者の如く単純な者は混乱するので, 意識を二つに分ける。さて表題「社会意識の測定」の「測定」である。この言葉は, 鑑定(IQの), 鑑別(ヒョコの)判定(及落の)などと同様に, 一つの規準を予め準備してから出来ることである。例えばIQの鑑定は, 90∿110のIQを規準として, その規準に上下にそれるIQを, 高い, 低いと呼ぶ。判定では60点を規準として, 高点と低点とに分ける。社会意識の測定も, 右の鑑定や判定と同様に, 規準が必要である。その規準は, 右と同様に「普通」を規準とせねばならない。ここに普通とは, 正常な意識, と考えられる。これを規準とすると普通でない意識は, 異常な意識である。

    西京大学学術報告. 理学及び家政学 = The scientific reports of the Saikyo University. Natural science and living science 2(4), 103-129, 1957-08-31

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