探求の旅という想像力のかたち:アンドレイ・プラトーノフ『チェヴェングール』

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抄録

作家アンドレイ・プラトーノフの長編『チェヴェングール』はゴーリキーが「好情風刺的」と評して以来,その暖昧な懐の深さを誇示するかのように,現在に至るまで実に多様な解釈を許している。本論では長編の主要テーマの一つ,探求の旅を検討することで,プラトーノフの作品が持つ暖昧さの形成過程と特色を追うことにする。孤児である主人公ドゥヴァーノフが,不和と分裂の蔓延する世界の中で人々を結びつける共産主義を求めつつ,自らの血縁を探すという本作品の探求のテーマは時代を反映したものでもある。ヒューマニズムの危機,世界の分裂状態という不完全な現状の認識から出発し,調和や再統合への探求に至るという想像力の枠組みは,ルカーチ,ベルジャーエフ,オルテガ,ブロークらの当時の言説に共通している。実際『チェヴェングール』のテクストでは,当時の現状認識を作品の世界観に反映させるかのように,скука/тоска/пустотаといったキーワードを多用することで,虚無の支配する不完全な世界を構成している。それは人物の精神と身体から世界の情景描写まで幅広く浸透することで,世界の虚無が抱える根源的な要素を示している。但し,本作品の虚無は同時に始まりのゼロ,運動を喚起し,世界を受け入れる用意のあるゼロでもあり,探求の旅を喚起する役割も担っている。こうして始まる探求の旅は,物語の前半部は蒸気機関車,後半部は馬或いは徒歩と移動手段を異にしており,各々が探求の旅の特質を決定している。まず,当時の蒸気機関噂は予定された未来へと直進する革命のエンブレムであった。一方,作品中の馬や徒歩はロシアの遍歴の伝統に連なりながら,暖昧な未来へとあてどもなく進む,過去と未来の時間軸が混在する運動形態を示唆している。それは同時に俯瞰的な視座から捉えられ,所定の目標へ結ぶだけの道(путь)から,眼前にあるものとして前景化された道(лорога)へ,探求の旅がたどる道の質的変容でもある。即ち『チェヴェングール』の探求の旅とは,先験的に分裂と統合を結びつけるに過ぎず,所定の目標との関係においてのみ価値を保っているような静的な道程と,探求の過程そのものが前景化され,生成すること自体の価値を有するような道程との闘争に他ならない。探求の結果の暖昧さはその格好の証左であろう。実際旅の目的であった共産主義は探求の進捗と共に意味内容の変遷を余儀なくされ,主人公と血縁を象徴する亡父との邂逅も 一義的な統合ではない。このような過程の前景化は,当時の段階的発展史観や革命そのものの特性である過程の省略に鋭く対立し,永遠の旅とでも言うべき作品の構造を創造する。プラトーノフは同時代の言説の枠組みから出発しながら,その単純な二元論的図式を越えて,暖昧模糊とした探求の過程そのものを見据える視点を獲得しているのである。

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