amaravikkhepaについて

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抄録

Dighanikaya第一経の「梵網経」には,一般に六十二見と総称される異見の集成が伝承される.amaravikkhepaとはそれらの中,第4番目に紹介される主張の論名である.従来の研究では,その主張内容と仏教の無記等とがしばしば比較された反面,論名やPali「梵網経」以外の資料を用いた論の考察は,未だ成し遂げられていなかった.本稿では現段階で使用可能な資料を駆使し,amaravikkhepaに関して残存する問題の提示及びそれの可能な限りの解明を目指す.まずPali「梵網経」の記述による限り,amaravikkhepaとは,「〜ではない.…でもない.」というやり方ではっきりと答えないことを意味する.一方,有部系の経典では,この「〜ではない.」という表現はamaraviksepaの1バリエーションへと成り下がり,同時に相手の主張に唯々諾々と従う態度もがamaraviksepaに含まれる.さらに後代の論書では,単に自説をはっきりと述べないことが,このamaraviksepavadaの特徴と解されていく.この様に解釈が分かれた原因は,amaraviksepaという論名自体が,テクスト伝承者にとって意味不明なものであったことを強く示唆すると考える.amaravikkhepaの原義に関しては,複合語前分のamara-の解し方が問題となった.そして種々のテクストを検索した結果,「終わりのない言葉」,「魚の名称」,「神」等の説明が為されていることが判明した.それら諸事情を念頭に置きつつamaravikkhepaの適訳を考えるに,常用される「鰻問答」や「不死矯乱論」は不適切であることが分かる.そして検討の結果,Paliテクストの用例にそぐい,かつ有部系の文献の記述とも矛盾しないPali訓註釈の第一の解釈(amara vaca)にしたがうのが最善であり,「際限ない〔言葉による〕ごまかし」,英訳:'endless equivocation'が現段階で提出できる適訳であることが明確になった.

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