チェッラッタンマンは誰か? : 関係的神性、本質的神性、変態する存在者(<特集>動くアッサンブラージュを人類学する)

書誌事項

タイトル別名
  • Who is Chellattamman? : Relational Divinity, Substantial Divinity and Metamorphous Beings(<Special Theme>Anthropologizing Moving Assemblages)
  • チェッラッタンマンは誰か?--関係的神性、本質的神性、変態する存在者
  • チェッラッタンマン ワ ダレ カ カンケイテキ シンセイ ホンシツテキ シンセイ ヘンタイ スル ソンザイシャ

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抄録

ミーナークシー寺院の北門を守るチェッラッタンマンは、偉大な神に否定された卑しい女神なのか。菜食の神々と肉食の神々の関係は、カースト間関係と相同のロジックを持ち、両者は相補的で階層的な関係にあるとするデュモン、ビアドゥー、フラーらの構造的な思考からこぼれ落ちたパーソンの過剰を本稿は取り上げる。パーソンは階層的に差異化した存在者ではない。パーソンは変態する。パーソンは他のパーソンの中に現れる。私は本稿において、高位の神の分身とされる低位の神の本性を、答えが予め決定している階層性の公準において捉えるのではなく、パーソンに内在する生成する差異とその外在化において探求する。すなわちアンチテーゼでチェッラッタンマンを捉えるのではなく、テーゼにおいてチェッラッタンマンは誰かを問う。南インドの周縁の伝統には、パーソンの連続性に関る古い主題と古いロジックが残っている。このロジックを辿ると、高位の神と低位の村の神の間に、差異と連続性が現れる。古い南インドの存在論のパースペクティヴから見ると、チェッラッタンマンとミーナークシーは、反復から生まれた相互の分身と捉えることができる。持続の中で、ミーナークシーは部分的にチェッラッタンマンの未来となり過去となる。私は全体性のパースペクティヴが捨象した契機を、存在への問いに導かれて記述することを試みる。

収録刊行物

  • 文化人類学

    文化人類学 76 (1), 53-76, 2011

    日本文化人類学会

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