ランドスケープ描像で見る細胞分化の物理(最近の研究から)

書誌事項

タイトル別名
  • Physics of Cell Differentiation from Landscape Perspective(Research)
  • ランドスケープ描像で見る細胞分化の物理
  • ランドスケープビョウゾウ デ ミル サイボウ ブンカ ノ ブツリ

この論文をさがす

抄録

シュレーディンガーが1944年の「生命とは何か」において生命現象の物理学的な解明を提唱して以来,1953年のDNAの二重らせん構造の発見に代表されるように,分子生物学や構造生物学など現代生物学の中核をなす分野が物理学を基礎として発展してきた.生物を構成する細胞は,多様な生体高分子が相互作用しながら物質やエネルギーを周囲とやり取りする非平衡開放系であり,その中では分子の形や個数の変化,会合・解離や化学反応などのゆらぎが多様な時間スケールで起こっている.このため,今もなお,さまざまな生物現象が物理学の魅力的な対象であり続けている.本稿では,細胞分化という現象に非平衡統計力学の立場からアプローチしたわれわれの研究を紹介する.ヒトの個体には,骨細胞,神経細胞,筋細胞など構造・機能の異なる約200種類の細胞がある.生物の個体発生において,受精卵というただ1つの細胞から多様な細胞へと向かう過程は,細胞の分化とよばれている.一度分化した細胞は後戻りをしない,つまり分化は不可逆であると長い間考えられてきたが,一度分化した細胞を未分化状態に戻す方法が山中らにより発見され,さまざまな応用が期待されている.われわれは,マウスのES細胞(胚性幹細胞)が原始内胚葉と栄養外胚葉のいずれかに分化する段階に着目し,この分化初期段階に関与する遺伝子制御ネットワークのふるまいをコンピューター上でモデル化することにより,分化のメカニズムを検討した.遺伝子の情報に基づいてタンパク質が合成されることを遺伝子が発現するというが,異なる種類の細胞では発現している遺伝子が異なっている.本研究では,ES細胞の未分化状態で発現している3つの遺伝子Sox2,Oct4,Nanogと,そこから分化した細胞で発現する3つの遺伝子Cdx2,Gata6, Gcnfから成る遺伝子制御ネットワークの確率シミュレーションを行った.そして状態間遷移確率を自由エネルギーに類似した量に駆動される速度流と非平衡渦流という2つの成分に分離して,その自由エネルギーに類似した量を用いて,細胞の状態変化のランドスケープを描いた.その結果から,以下の2つのことがわかる.1つ目は,Nanog遺伝子の発現に必要な転写装置(とよばれるDNAとタンパク質の複合体)の形成・解体の時間スケールが他の遺伝子に比べて長いことが,未分化状態からの分化のきっかけを作るNanogタンパク質分子数の大きなゆらぎを生み出していることである.また2つ目は,この時間スケールの違いが,分化過程における未分化状態と2つの分化状態の区別を明確にする役割を持っていることである.近年は網羅的手法により膨大な数の遺伝子,タンパク質やそれらの相互作用が明らかにされているが,それでもなお,現実に存在する相互作用のすべてがわかっているわけではない.このような状況におけるコンピューターシミュレーションや理論的研究の意義は,いわゆる第一原理的計算のように確実な知識を組み合わせて現象の詳細を知ることではなく,実験によって得られた不完全な知識をもとに,重要な未知の要素,相互作用,メカニズムの存在を探ることにある.本稿の研究はそのような研究の一例となっている.

収録刊行物

  • 日本物理学会誌

    日本物理学会誌 70 (10), 765-769, 2015-10-05

    一般社団法人 日本物理学会

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ