アヴァール人とハンガリー人

抄録

ほとんど人の住まない広い土地に、孤立した蛮族たちがまばらに残存していると、六世紀中頃のパンノニアについて、ビザンツの歴史家プロコピオスは記している。アッティラの死後、後継者の争いやアッティラに服属していたゲピドをはじあゲルマン諸族の反乱によって、パンノニアのフン族国家は崩壊し、ドナウ中流域では、スキリ、スエヴィ、エルリ族などのゲルマン部族やイラン系サルマート族の興亡や東ゴート・アマール(〉目巴)家の二人のテオドリックの抗争が展開された。東ゴートの撤退ののち、六世紀はじめには、ドナウ支流ティサ川の流域とトランシルヴァニアに拠ったゲピド族がビザンツ都シルミウム(sir-mium)を占拠し、ランゴバルド族はモラヴィアと下オーストリアを占領したエルリ族を、六世紀半ばにはゲピド族を征服する。しかし、ランゴバルドは、ゲピド族との戦いに同盟したアヴァール人にその征服地を托してイタリアに去った。このランゴバルドのイタリアへの移動とアヴァール人のカルパティア盆地への定着は、しばしば古代末期民族移動の終末と解されている。カルパティア盆地のドナゥ川東部すなわちハンガリー平原ないしはオルフェルド(〉嗣曾α)は、ユーラシアのステップの最西部を形成し、カルパティア山脈によって、大ユーラシアのステップと劃されている。ドナウの西部(トランスドナウ)は丘陵、山地と平原からなっている。六世紀後半から約二五〇年間、アヴァール人がカール大帝の征服に屈してのち、ハンガリー人(マジャール人)によってカルパティア盆地は占拠されたが、中央アジアの遊牧民でらの社会が、この盆地において、かつて考えられたより農耕に基礎をおいていたことが明らかになっている。伝統的な見解によると、遊牧民は摯耕を習得するのに大きな困難をともない、かれらは農産物を征服民から徴集するか、侵略によって略奪するか、あるいは、かれらの定住地周辺の耕作に捕虜を使役したという。しかし、遊牧民が農耕を取り入れ定住生活に転換した例は、過去において少なからず存在するので、このような説は、今日かならずしも受け入れられない。遊牧はかならずしも農耕を排除しないし、遊牧民の生活も一様ではない。小論では、カルパティア盆地に定着したアヴァール、ハンガリー人がどのように農耕、遊牧の生活を営み、かつハンガリー平原の牧草地がかれらの略奪経済の軍事力である騎馬戦力をどう規定したかについて、述べてみたい。

収録刊行物

  • 奈良史学

    奈良史学 (12), 64-75, 1994-12

    奈良大学史学会

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