地方改良運動期の郡報―地域情報施策と公報メディア・アーカイブズ―

書誌事項

タイトル別名
  • The official bulletins of county (gun-ho) during the period of the local imprevementmovement (Chiho Kairyo Undo)
  • チホウ カイリョウ ウンドウキ ノ グンホウ : チイキ ジョウホウ シサク ト コウホウ メディア ・ アーカイブズ

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抄録

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明治12(1879)年から大正15(1926)年の間、府県と町村の中間に置かれた地方行政機関である郡役所のなかには、「郡報」「郡公報」「郡時報」等の名称の定期刊行物(以下「郡報」と総称)を発行するものが少なくなかった。明治30年代までの郡報は、郡制施行を契機とする公布公告のための「公報誌」で、官報や府県公報誌同様のスタイルをとった。このスタイルのものも、「彙報」により様々な行政情報、地域情報を伝達する機能を有していたが、明治40年代から大正期に創刊された郡報は、公布式による公布公告機能を離れ、広報的機能を大きく拡充させたものに移行していく。 これは、明治41年の戊申詔書発布以降に本格化した地方改良運動(後継としての民力涵養運動を含め)推進を目的とするものであったといえる。上意下達の指揮監督に留まらず、住民や団体の自発的な活動を促そうとする「運動」であったがゆえに、必要な情報が積極的に郡内を環流する必要があったからである。 近代日本にアーカイブズ制度は導入されず、公文書が公開されることは基本的にはなかった。しかし、これを原議文書に限定せず、行政記録全般に拡げ、行政情報の統制と周知という情報施策を考えるとき、それだけで済ませることはできない。民間新聞の奨励から規制への転換にみられるように、国策遂行に沿わない情報が統制された一方で、必要な情報は積極的に周知伝達される必要があった。中央集権国家建設期にその必要性は高く、そのためのメディアとして早々に『太政官日誌』が生まれ、自由民権運動に対抗するように『官報』が創刊された。明治後期には地方でも府県公報誌が拡がった。これに対し、地方改良運動は町村を対象単位とする政策であり、このレベルまでの情報の周知伝達と理解受容が求められた。ここにおいて、郡役所までが独自の行政情報伝達メディアを保持するに至る。そこには、そのメディア的性格を「公報」から「広報」へと転換させるという、行政情報史上の画期ともいうべきものがあった。 Still in modern times, the idea of archives policy had not long been introduced into Japan and public records had not opened to the public. On the other hand, there was information that must to be announced to them. In the latter half of Meiji and Taisho Era, there was a need to strengthen the announcement function for the purpose of promoting the local improvement movement (Chiho Kairyo Undo). During this period many county office (gunyakusho) issued various kinds of official bulletin (gun-ho). This was an epoch-making event in the history of the information-utilization by local administrations. Today they have become valuable archives.

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