文部省唱歌から童謡へ -山田耕筰の童謡観からみた旋律と日本語アクセント -

書誌事項

タイトル別名
  • FROM "MONBUSHYO-SHYOKA" TO "DO-YO" - Western Music and Japanese Accent Through Kosaku Yamada's Value of "Do-yo" -
  • モンブショウ ショウカ カラ ドウヨウ エ : ヤマダコウサク ノ ドウヨウカン カラ ミタ センリツ ト ニホンゴ アクセント

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抄録

要旨 明治時代後半以降、一部の人のものであった子供と教育への関心は、「こども博覧会」(1907(明治39)年5月4 日~16日)をきっかけに、急速に高まりを見せる。博覧会に関わった出版社や新聞社は、子供を対象とした様々な 雑誌を創刊したり、教育的イベントを企画したりし、「子供のための」取り組みは大正期に入ってさらに読者を獲 得、広がっていく。本稿は、そのような社会的ムードの中で展開した、山田耕筰の童謡観について、山田自身の2 つの著述「作曲者の言葉――童謡の作曲に就いて」(『詩と音楽』大正11年11月号ほか所収)、「歌謡曲作曲上より見 たる詩のアクセント」(『詩と音楽』大正12年2月号所収)に基づき考察するものである。これらは、前者が概論だ とするならば、後者は、実践編にあたる。 著述の内容からわかる山田の童謡への姿勢と、そこから生み出された≪あかとんぼ≫の分析から明らかになるの は、「赤い鳥」運動の高い志を保ち芸術的童謡を模索する中で、日本語詩のアクセント論にたどり着き、西洋音楽 理論を超えた日本語固有の拍節感から作品を生み出したことである。 初期の学校教育と社会教育活動は重なる部分が多い。童謡における山田の活動は、全国各地の小学校で、文部省 唱歌の代りに童謡をうたわせることが多くなった時代にあって、初期唱歌教育において目指された共通日本語教育 への志向が、芸術家によって一定の見解をみた大きな成果の一つであった。

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