抽象的対象と様相

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タイトル別名
  • Abstract Objects and Modality
  • チュウショウテキ タイショウ ト ヨウソウ

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抄録

『算術の基礎』においてフレーゲは、抽象的な存在の一例として「赤道」を取り上げている。これは、ある対象が抽象的、つまり因果的な能力を欠いているにもかかわらず、なお「客観的」でありうることを示すための実例として優れており、それとともに抽象的対象がむきだしにではなく、それを含む文脈の真理条件を介してしか把握されないことを示す実例として示唆に富んでいる。しかしこの実例は数学的対象の比喩として完全なわけではない。というのも、赤道がいかなる性質をもつにせよ、われわれはそれを偶然的と考えるのに対し、何らかの数学的対象、例えば特定の自然数がある性質をもつこと (7+5=12や1<2) は、必然的だと感じられるからである。しかしこの「必然的な感じ」にはどのような理由があるのだろうか。それは何らかの誤解に基づく感覚にすぎないのか、あるいはそれなりの理由がある正当な直観の表現なのか。<BR>数学的な言明の必然性あるいは数学的必然性が一般に不評なのは、論理的な必然命題とは異なり、数学において必然的だと言われる言明には何らかの対象の存在を主張する言明が含まれるからだ、と考えられている。もしある存在言明が必然的に真であるならば、その言明で存在すると言われているものは必然的に存在する、とは言えるかもしれない。だが、存在言明が必然的に真であるというようなことはありうるのか。例えば、「未婚」という概念が「独身者」という概念の一部だと言えるのであれば、「独身者は結婚していない」という分析的な言明は必然的に真だと考えてよいであろう。しかし、何ものかの存在を主張する言明にそのような分析性を期待することははたしてできるであろうか。あえて、期待できると答えるならば、それはちょうど神の存在証明のようなものになってしまいはしないだろうか。<BR>このことをもう少し丁寧に考えてみよう。数学的な必然性が不評である一つの理由は、論理主義のプログラムが失敗に終わったことにあると思われる。数学の言明を論理の言明に帰着させることはできないのだから、論理学での必然性をそのまま数学的言明にまで持ち越すことはできない。しかし、このことは数学の中に必然的な言明が存在しないということを端的に意味するわけではない。「未婚」概念が「独身者」の概念の一部であるというのと同様な意味で、例えば、5+7=12は、5, 7, 12を含む自然数の概念と自然数の上での加法概念の「一部である」と考えられるかもしれない。正確さを欠いた言い回しではあるにしても、こう考えることはそれほど奇妙なことではないように思われる。もしそうだとすると数学の中にも、「独身者」の例と同様な必然的言明があるということになるだろう。では、その必然的言明とは「5+7=12」という言明なのだろうか。より常識的な反応は、「5+7=12」という言明が必然的なわけではなく、むしろ「もし自然数が存在するならば、5+7=12」という言明が必然的なのだ、ということになるであろう。とすると、数学的な必然性に対する不評は、数学的な言明の必然性一般に対する不評ではなく、数学的対象の必然的存在に対する不評だということがわかる。<BR>数学の哲学といわれる分野では、ベナセラフの論文以降非常に活発な議論が展開されてきた。ベナセラフが提出したのは、数学的言明の意味論がとるべき形と数学的認識論との間のディレンマであった。このディレンマのどちらの角を採るかをめぐって、旧来の分類には収まりきらない様々なプログラムが提案されてきた。そうしたプログラムの中で私が最も興味深いと感じるのは、フィールドの虚構主義とライト・ヘイルのフレーゲ的プラトニズムであり、両者の間で展開されている応酬である。この応酬は、数学的対象の必然的 (偶然的) 存在をめぐるものであり、以下では、そこでの議論をもとに数学的対象の必然的存在を認める立場がいかにして可能となるか、を考察してみたいと思う。

収録刊行物

  • 哲学

    哲学 1998 (49), 43-55, 1998-05-01

    日本哲学会

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