図画のわいせつ性をめぐる裁判の恣意性再考

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タイトル別名
  • Rethinking Arbitrariness of Obscenity Trials
  • ズガ ノ ワイセツセイ オ メグル サイバン ノ シイセイ サイコウ

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抄録

日本における図画のわいせつ性をめぐる裁判に関しては、その恣意性が批判されてきた。ただし、それらの批判は、わいせつ裁判が必然的・蓋然的に恣意的になることを主張するものであり、個別具体的な判決のどの部分がいかなる意味で恣意的なのかを分析・考察する方向性は開かれていなかった。そこで本稿は、図画のわいせつ性をめぐる裁判に関して、その恣意性を考察するための準拠点を析出する分析方針を提示することを目指す。<br> まず、裁判の恣意性を指摘する既存研究を批判的に検討する。第1に、図画をわいせつである/ないと見ることは必然的に恣意的だとする立場が、法的判断の恣意性の分析を目指すためには有益でないと論じる。第2に、法的判断が恣意的か否かという問題は、裁判官が判決を形成した際の動機を推測することによってではなく、判決の正当化の論理を分析することによって検討されるべきだと論じる。<br> そのうえで、法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析するという方針を提示する。同方針のもとで、具体的事例として愛のコリーダ事件一審判決を分析し、解明された概念の論理文法を参照するかたちで、当の法的判断の恣意性を考察する。結論として、図画のわいせつ性をめぐる法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析することが、その法的判断の恣意性の考察にとって有益であると主張する。

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