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山中 芳和 岡山大学大学院教育学研究科研究集録 151 1-11, 2012-11-27
...本稿は,在地社会における六人部の神職としての位置と学びの過程及び篤 胤学の受容の経緯を考察し,幕末期の神職における国学学びの一様態を明らかにする。...
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山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 127 11-20, 2004
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 127 (1), 11-20, 2004
...本稿は『幕末維新期の国学における学校論史の研究』と題する研究の一環として,平田篤胤の国学における求心力の性格を,篤胤の最初の著作である『呵妄書』の内容を中心に検討することを課題としている。幕末変革期において平田国学が全国的に大きな知的集団を形成していったその一つの要因として,篤胤国学の持つ求心力の存在を考え,『呵妄書』に依拠してその初発の時点での特質を考察することを目的とするものである。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 122 141-150, 2003
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 / 岡山大学教育学部学術研究委員会 編 (122) 141-150, 2003
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山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 112 (1), (1-5), 1999
...著者の六人部是香(寛政十~文久三)は山城国乙訓郡向日神社の神主であり、平田篤胤門の国学者である。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 106 (1), 149-156, 1997
...尾張地方において、国学が普及する上で大きな勢力をもっていたのは、田中道麿とその社中であり、彼らは宣長が寛政元年に名古屋へ出講する以前から国学の学びを展開していた。天明4年に道麿は死去するが、その後は、道麿社中の主な人々は宣長に入門した。こうした状況の中で、宣長が名古屋に出講し、漸次門人の増加をみた。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 105 (1), 195-202, 1997
...羽田野の事例は、幕末期における国学運動が、文化史的・教育史的側面からも考察されるべきか豊かな事実を内包していることを示唆している。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 104 (1), 123-132, 1997
...本稿は、幕末期国学の地域における展開について、三河国吉田の平田篤胤門人、羽田野敬雄[寛政10年(1798)―明治15年(1882)]の活動を中心に考察し、地方知識人としての国学者による営為の教育史的意義を明らかにする事をねらいとしている。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 98 (1), 13-21, 1995
...藤井高尚の国学に関して、筆者はこれまで3回にわたり、本研究集録に「化政期国学の一断面」と題する論考を掲載し、藤井高尚の国学の教化論的性格についての考察を行った。しかし、それらの論考は幾分論点が多岐にわたり、その結果焦点が拡散したうらみがあった。そこで本稿において改めて先の3論考の内容を集約するとともに、藤井高尚の国学の教化論的性格を化政期の教訓をめぐる状況の中に位置づけておきたい。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 96 (1), 61-75, 1994
...本節においては、まずはじめに高尚の国学の全体像をとらえ、次いで『浅瀬のしるべ』における高尚の諺解釈の分析を通して高尚の国学に見られる教化意識の特質を検討し、最後に『道のしるべ』のなかに展開される「神ノ道ノ教」に基づく教化論の特質を、人間像を中心に考察していくこととする。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 95 (1), 77-85, 1994
...国学思想において、このような被治者たるものの心構えが、政治論的文脈の中で説かれるようななったのは、前章で指摘したとおり本居宣長においてであった。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 90 (1), 203-213, 1992
...本稿は、備中吉備津神社の神職であった国学者藤井高尚(明和元、1764年~天保11、1840年)に関して、かれの教訓的著作『浅瀬のしるべ』(文化9年)及び「道のしるべ」(文政7年『三のしるべ』上の巻)の検討を中心に、高尚の国学思惟における教化性の問題について考察することを通して、化政期国学の一断面を明らかにすることを主たる課題とするものである。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 80 (1), 171-191, 1989
...近世の国学はこれまで、倫理思想史、政治思想史、文学史、歌学史などの諸側面から研究の蓄積がなされてきた。しかし、近世の国学は、これら諸領域からの研究によっても明らかにしえない側面が少なからずある。では教育史の固有の問題としての国学研究とは一体何か。その一つとして、従来の国学研究がともすれば附随的にしか取り上げなかった、国学の受容・普及という問題があると思われる。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 73 (1), 47-62, 1986
...[Ⅲ]においては、[Ⅰ][Ⅱ]をうけて、明治維新政府の最初の教育制度構想である学舎制の特質を、矢野玄道の国学思想と学校構想とに焦点をあてて考察し、明治初頭の復古性を教育理念の側面から明らかにしたい。これらの作業は、教育勅語によって確定される民衆の臣民化政策の性格を、その道程の発端の時点において明らかにすることになるとおもうのである。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 68 (1), 35-45, 1985
...以上の考察を通して、幕末維新期の国学にみられる教化論の性格が、民衆統合論の視角から明らかになり、学校教育思想がもつ意義も明確になるものとおもう。...
山中 芳和 岡山大学教育学部研究集録 64 (1), 109-121, 1983
...そしてこの道学的性格が、その後、更に積極的に拡充されていくことにより、教化的性格をおびた国学が出現することを、藤井高尚の場合を例にとって検討していくことである。国学における教化論の展開については、従来次のようなことがいわれてきた、「国学神道による教化の障碍は篤胤によってひとつひとつ除去され神道を手段として教化の手は人間の内的心情の奥深くまで滲透する。」ようになったと。...
山中 芳和 日本教育学会大會研究発表要項 38 (0), 1-, 1979
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