鳩居堂村田藏六による蘭語BERIGTENの譯述語「情貌ヲ報告」と其簡約語「情報」

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大村益次郎永敏(文政7年至明治2年)こと村田蔵六良庵32才安政3年11月江戸麹町新道一番町千鳥ヶ淵近傍幕府御家人篠山某家屋敷買受け蘭学私塾鳩居堂開塾、先嘉永2年村田良庵大坂過書町緒方洪庵適塾塾頭時代の適塾生因州鳥取藩士大田静馬を鳩居堂塾頭、開塾考案人加賀藩士安達幸之助を塾監とし、入塾生延160名に和蘭陀語介する泰西医學傳授。文久3年までの事蹟である。開塾當時蔵六愛媛宇和島藩蘭學御用雇身分の周防国鋳銭司村医にして、同安政3年10月飯田町九段田安御門外牛ヶ淵在幕府蕃書調所教授方手傳に出仕有、翌安政4年10月に至り最初築地小田原町後年小石川御門内小川町廣地移設の武術操練場江戸幕府講武所教授方へ転役。舶来蘭書閲読翻譯亦泰西洋式兵學を幕府御家人に講述。「鳩居堂では暗いうちに起き時には行燈の光で講義してから蕃書調所へ出勤する」精励格勤の日々の蔵六、講武所在勤時に加賀藩から蘭書翻譯請負い鳩居堂にて加賀藩士の塾監安達幸之助手傳い蘭語兵書「達古知幾」等課述。此「達古知幾」語は「戦闘術ノ封場の際決戦を示すの學にして司令舶の専務なり」と長藩博習堂規則書に蔵六記す和蘭陀兵語TAKTIEKタクチイキの音写漢字を幕末期に達古知幾また答古知幾と書いたもので、蔵六宇和島藩蘭寧御用雇先任高野長英嘉永3年当時譯述「三兵答古知幾」HEINRICH VON BRANDT; TAKTIEK DER DRIE WAPENS.IN FANTERIE, KAVALLERIE EN ARTILLERIE.D0ORJ.J.VAN MULKEN 1837(プロシヤ軍人プラント原著ミュルケン蘭譯歩騎砲三兵戦闘術書)以来の「三兵戦術の沿革並びに傳来とその日本化」のキーワード語(昭和12年「軍事史研究」2巻1号軍事史學曾)。文久3年11月蔵六国許長藩都合有江戸出立番町蘭學私塾鳩居堂閉塾。江戸幕府講武所在勤當時の蔵六蘭學に就き、幕府外交文書翻譯御用掛蕃書調所教授方で蔵六と同席しのちオランダ兵學校留学の原田敬策は「先生は理解力に長じ讀書翻譯とも余程勝れ當時講武所に於ける兵書翻譯の如きは先生の参られてから俄に面目を一新した次第で新規舶来の原書難文を容易に解釋せられた」と「大村先生逸事談話」する。<参考>蔵六の蘭籍類.山口市の歴史民族資料館と鋳銭司郷士館などには、道富ハルマ辞書「蘭語通」、蘭語兵書DE KLEINE OORLOG、また蔵六初翻刻本「海軍銃卒練習軌範」安政3年宇和島文庫、ほか保存有(蘭学資料研究会「研究報告」95号1961、日蘭学会「洋学史事典」昭和59年)。

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