「遊び」と日本人

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  • "Play" and the Japanese

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抄録

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日本では「遊び」にはスポーツ,観光,飲み食い等の道楽,また何も活動しないことなどの意味があるが,また「遊ばせ言葉」に見られるように,日本人にとって「遊ぶ」精神は特別なものでもある。人生に対し一歩離れて眺め,私心の無いゲームをやっているような涼しい態度をとる事で一番洗練された人になる。幾らか仏数的な発想だろうが,この様に自分の道を如何に冷静に辿るかは理想に近づく事になる。その「道」自体は「遊び」でも,「人生」でも,「哲学」でもある。華道,弓道,書道,柔道などなどは欧米の「遊び」にも入るが,欧米では,「趣味」であって,特に凝る人以外は哲学があるような物とは考えない。日本人にとっては「遊」であるから,その道を覚えるには練習することこそ大事である。練習も本番も同じく「道」であるが,西洋人は日本人の練習量に呆れるばかりである。「道」と言えば「武士道」が典型的なもので,武士がその道を忠実に歩くことは,日本人の心の理想を表現することだと言える。新渡戸稲造が「BUSHIDO」で取り上げた武士の切腹する場面においては,その人生観,死に面しての冷静さと「儀式」の正しい形式のこだわり方など,武土が自分の遊を「舞台」と考えていることに,人生の「ゲーム」という印象を強く受ける。それこそ、切腹遊ばされたと言うのが適当であろう。又,「儀式」は欧米人にとって面倒で,自由を奪うものとみえるが,日本人にとっては社会的な役割を果たす。日常生活に節目を付け,また経済的な意味はまったく無いが自分の社会の中の身分や地位を「儀式」によって確かめることで安心する。その反面で,日本人は日本社会の目に非常に敏感であって,国際的な場,例えばスポーツ競技などではプレッシャーがきつくて,失敗することが多いし,「見栄」を張って,それに振り回されている日本人は少なくない。

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