シャリーフ政権によるメッカ支配と国際関係 : バフリー・マムルーク朝期を中心に

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  • The Meccan Sharifate and its diplomatic relations in the Bahri Mamluk period
  • The Meccan Sharifate and diplomatic relations in the Bahri Mamluk period
  • Meccan Sharifate and diplomatic relations in the Bahri Mamluk period

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抄録

中近世のイスラム世界において、メッカは巡礼の目的地であったのみならず、ウラマーなどの交流の場として、通商路の中継地点として、政治・経済的にも文化的にも重要な役割を果たしていた。当時メッカの支配勢力は、預言者ムハンマドの子孫であるシャリーフによる政権であった。彼らはメッカのおかれた地理的条件、ヒジャーズ外部の王朝の勢力関係、シャリーフとしての宗教的権威などを巧みに利用しつつ、複雑な国際政治の舞台においてその存在基盤を確かなものとしてきた。しかし従来のメッカ研究は、イスラム教の聖地としての宗教的役割に集中され、その結果、メッカが当時のイスラム世界において果たしていた政治・経済的、そして文化的な役割についての歴史的史料に基づく実証的な研究はきわめて少ない。本稿は、メッカの地方史であるIbn Fahd (812/1409-885/1480)のIthafおよびal-Fasi (775/1373-832/1429)のShifa'と、人名辞典であるal-Fasiのal-'lqdを主史料として用い、シャリーフ政権によるメッカ支配の実態を検証する。メッカのウラマーによって記された史料を用いることにより、メッカ内部からの視点を提供し、その考察を通じて、メッカの支配勢力であったシャリーフ政権の性格を明らかにする。バフリー・マムルーク朝期(1250-1390)には、メッカにはシャリーフ政権としての軍隊は存在せず、個々のシャリーフらが手兵とも呼ぶべき個人的な軍隊を率いて行動していた。シャリーフらは個々の支配領域において分立し、イラクやアフリカ東海岸地域の都市など、ヒジャーズ地方に限定されない広い領域において支配を行っていた。メッカは農業に適さない環境であり、ハラージュ(地租)の税収入に依存することが不可能であったことから、彼らの主要な財源はマクス(雑税)であった。マクスはメッカにおいて売買されていた商品のほとんど全てに課されていただけでなく、巡礼者にも課されていた。メッカにおけるカーディーなどの各種任免権は本来メッカのアミール(統治権保持者)位にあるシャリーフの権限に含まれていた。しかし、外部諸王朝がシャリーフ政権への干渉を行った結果、これらの任免権は外部の諸王朝の権限に含まれるようになった。アイユーブ朝・マムルーク朝、ラスール朝、イル・ハーン朝などの外部諸王朝はシャリーフ政権内の内部抗争を利用して干渉を行った。干渉の目的は、聖地の支配者としての権威の獲得および商業・巡礼ルートの中継地点を支配下におくこと、マクス収入の確保であり、この目的を達成するために軍事遠征、シャリーフらの信奉していたザイド派への宗教的弾圧、徴税権や任免権などへの干渉を行った。シャリーフ政権はこれらの諸王朝の勢力を均衡させることによりアミール権の安定をはかり、一時的には成功を収めたが、その後の度重なる外部からの干渉と各シャリーフへの軍事援助によりシャリーフ間の対立が激化し、シャリーフ政権は弱体化した。以上のような支配実態・国際関係から、シャリーフ政権とは、個々のシャリーフらによる諸都市の分立統治体制であり、これに対して外部諸王朝が、巡礼・商業路の中継地点であったメッカを支配することによって得られる商業利益と、メッカを支配することによってイスラム世界において得られる権威を求めて干渉を行ったことが明らかとなった。このように、政権の内部抗争と外部からの干渉が密接に結びついていたことは、メッカという都市・地域の持つ特殊性と言うことができる。

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