朝鮮後期における国家祭祀儀礼の変動 : 壬辰倭乱直後の朝鮮と明

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  • チョウセン コウキ ニ オケル コッカサイシギレイ ノ ヘンドウ ジンシン ワ ラン チョクゴ ノ チョウセン ト ミン
  • Change of State Rituals in the Later Choson Period : Korea and China after Hideyoshi's Invasion of Korea

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本稿は,16世紀末の壬辰倭乱から17世紀前半の明・清交替までに時期を絞り,朝鮮後期社会においては国家祭祀儀礼がいかに変動し,また朝鮮政府は宗主国の明にどのように対処したのかについて追究したものである.その考察にあたっては官撰史料の『朝鮮王朝実録』,対明外交文書集の『事大文軌』のほか,儒家文集を活用した.戦勝を祈る関羽信仰は来援明軍によって朝鮮半島にもたらされだが,実際のところ朝鮮政府は漢城内の南関王廟と東関王廟の建設には反対であった.光海君も否定的見解を示していたものの,実録の清書の際に削除されてしまう.来援明軍のための祭礼施設としては平壌の武烈祠と漢城の宣武祠がある.朝鮮政府は机上で救援を指示した明将より,実際に現地の朝鮮で指揮を執った明将の功績を評価していた.だが,これらの祭礼施設は17世紀前半になると管理体制が弛緩し,清軍の侵入つまり丙子胡乱によって祭祀の運営に支障が生じることになる.朝鮮で戦死した一般の明兵を弔ったのが忠壇である.壇の名称は明の萬暦帝の聖旨によって決定したものであり,宣武祠と同じく愍忠壇も朝鮮政府の発案により創建された祭礼施設ではない.愍忠壇祭祀は丙子胡乱と明・清交替を経て忘れ去られていたが,飢饉に対する救済策の一環として17世紀半ばに復活する.その背景にあるのは明を追慕するいわゆる慕明思想ではなく,むしろ天譴思想であったと考えられる.本稿で検討した関王廟・宣武祠のほか愍忠壇がクローズアップされるには,小中華意識が高まる18世紀半ばの英祖代を待たねばならなかった.

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