宗教としての<親鸞>思想(思想としての宗教,<特集>第六十八回学術大会紀要)

書誌事項

タイトル別名
  • "'Shinran'-Thought" as Religion(Religion as Intellectual Thought,THE PROCEEDINGS OF THE SIXTY-EIGHTH ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES)
  • 宗教としての<親鸞>思想
  • シュウキョウ ト シテ ノ シンラン シソウ

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抄録

「宗教以前」の<私>が「宗教の中に生きている」ことを発見するところに思索がはたらいている。そのような「思想」(親鸞の「本願との出遇いを聞思する思索」)を関心事とする。親鸞は自身の「本願・念仏・信心」理解を「聞思」する(思索し、表現して語る)。歴史上の親鸞が、最初の<親鸞>思想の担い手であり、親鸞につながって念仏者となる人々(歴史的<真宗>共同体に集う人々)が(次なる)<親鸞>思想の担い手である。そのような人々が連綿と生まれ続ける力を与えているのが親鸞の「聞思」の思索である。歴史的<真宗>共同体に集う人々は、「報恩講」を営み「正信偈」を唱和するなかで親鸞と一味の「信心」理解を生きる。「正信偈」を唱える主体(一人称の主語)は、歴史上の親鸞であり、また、一人一人の念仏者である。親鸞と共に、「もつぱらこの行に奉(つか)へ、ただこの信を崇(あが)め」る人々の運動態・共同体が、宗教としての<親鸞>思想を生きる宗教運動態である。

収録刊行物

  • 宗教研究

    宗教研究 83 (4), 1093-1112, 2010

    日本宗教学会

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