大都市での選挙粛正運動における町内懇談会とその実態 : 戦前の大阪市北区を手がかりに

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  • Chonai Kondankai and the actual conditions under clean up election campaign in metropolitan city
  • ダイトシ デノ センキョ シュクセイ ウンドウ ニオケル チョウナイ コンダンカイ ト ソノ ジッタイ : センゼン ノ オオサカシ キタク オ テガカリ ニ

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抄録

大阪市でも全国的なながれと同様に、1935年から選挙粛正運動が展開された。端的にいうと、この運動は1935年から1942年までの7年間に、全国各地で展開された一連の選挙浄化運動のことである。そして、本稿は大阪市のなかでも北区を事例として取り上げ、1937年6月の市議会議員選挙の際の運動展開について検討する。そこで、本稿ではとりわけ、従来の先行研究が選挙粛正運動の際の部落懇談会の重要性を説いてきた点をかんがみ、大阪市における町内懇談会(大阪市では部落懇談会に相当する会合がこのように呼ばれた)に着目して検討を進めていく。そして、北区都島第一学区の都島本通1丁目および2丁目で開催された町内懇談会の検証により、全国各地で開かれた部落懇談会の開催方式とは異なる大阪市の特徴を把握することができるのである。すなわち、一般的な事例と比較すると、大阪市の場合には町内懇談会に参加する有権者の割合が極端に低いことに加えて、有権者にまでその成果が浸透するまでには多くの階層を経なければならないという「間接型懇談会方式」を採用せざるを得なかったのだった。これは、当時の大阪市内の有権者数の多さをかんがみるならば彼らすべてを町内懇談会に参加させるのは非現実的であり、自ずと参加対象者が限定されていたことに由来する。もっとも、本稿における検討では、地域社会のアクターとして中心的に取り上げたのは町内会であり、また当時の大都市のなかでも大阪市のみを扱っているにすぎない。そのため、今後は地域社会のなかで選挙粛正運動の展開を支えた他の団体のうごきを検証するとともに、他の大都市でも「間接型懇談会方式」が採られていたのか否かを検証していきたい。

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