Śāntideva's Critique of 'I'or Self in the Early and Later Recensions of the Bodhi(sattva)caryāvatāra

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シャーンティデーヴァ作の『入菩薩行論』第8章(『入菩提行論』第9章)は,それぞれ,およそ20偈を用いて,私(aham)ないしアートマン(ātman)批判を展開する.両者を比較すると,まず,以下のような特徴が注目される.(1)新旧両本において,内容的に一致する,あるいはごく一部の用語の相違を除いて一致すると推定される偈頌は5偈半ほどであり,その他は,配列順序のみならず,内容的にも大きく相違する.(2)総じて,読誦を通してみずから菩薩行を学ぶことに力点を置く旧本(8世紀前半頃成立,9章立て・702.5偈,書名『入菩薩行論』,著者名アクシャヤマティ)は,身体部位や,精神的な諸要素が「私」でないことを詳論する.これに対して,他学派のアートマン批判を詳説する新本(9世紀以降の成立,10章立て・913偈,書名『入菩提行論』(Tib.訳は『入菩薩行論』),著者名シャーンティデーヴァ)は,アートマン批判に重点を移している.(3)新本がアートマン批判を展開するkk.61-70は,「この心とは別な精神的なもの(cetana)は[私]ではない.瓶のように.非精神的なもの(acetana)もまた私ではない.精神を欠いているのであるから.瓶のように.」と出る旧本の1偈(k.44)に対応する.本稿は,とくに上記(3)の分析を通して,新旧両本の性格上の相違とともに,新本に見られるアートマン批判の詳細を考察することを目的とする.それぞれの文脈を踏まえたうえで,当該箇所を比較考察した結果,以下の諸点が結論づけられた.(1)旧本のk.44は,身体部位および精神的な諸要素が「私」ではないという自己省察をもとに,読み手(菩薩)に「私」批判を促すという文脈下に配置される.このアクシャヤマティによる「私」批判には,2つの前提がある.すなわち,「私」は精神的なものでなければならず,しかも,それは日常的な心と別であってはならないという前提である.旧本に対する,唯一現存する著者不明の注釈によれば,この偈頌は,精神的なものと意味づけられたサーンキヤ派のアートマン説と,非精神的なものとされたヴァイシェーシカ派のアートマン説とを,両者いずれにおいても日常的な心とは別なものとしてアートマンが規定される点に難があるとして批判を展開するという.(2)これに対して,新本は,同様の認識を前提にしたうえで,この1偈頌を総計で10の偈頌に拡大し. kk.61-68によって,サーンキヤ派のアートマン(プルシャ)説批判を詳論し. kk.69-7Oにより,ヴァイシェーシカ派のアートマン説批判を展開する.(3)両本に見られるこれらの相違は,1人称表現を多用しながら菩薩行の体得に力点を置く旧本と,他学派の教理批判を積極的に展開する新本との性格上の相違を,かなり典型的な形で示している.その意味でも,当該箇所は,新旧両本の著者問題にも関わる重要な論点を提供するものといえる.

Journal

  • インド哲学仏教学研究

    インド哲学仏教学研究 (13), 35-43, 2006-03-31

    東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室

Codes

  • NII Article ID (NAID)
    120000873363
  • NII NACSIS-CAT ID (NCID)
    AN10419736
  • Text Lang
    ENG
  • Article Type
    departmental bulletin paper
  • ISSN
    0919-7907
  • Data Source
    IR 
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