秋成の道真論 : 「菅原公論」読解

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抄録

菅原道真(菅相公)の左遷が何故起こったのか。『北野天神縁起』では宇多上皇と醍醐天皇とが政を道真一人に任せる事を密議、道真はその事を左大臣時平への憚りから辞退したが、時平はその事を漏れ聞いて無実の事を讒奏、その結果の左遷であるという。宇多上皇の道真への信任の厚さが、時平に危機感を感じさせ讒奏という行為に及ばせ、その讒奏に醍醐天皇が惑わされた結果の道真の不幸であるという。道真は『北野天神縁起』においては全くの犠牲者として描かれている。このような左遷をめぐる理解は、中世においては、北畠親房の「或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰たまひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれけるにや、左相いきどをりをふくみ、さまざま讒をまうけて、つゐにかたぶけたてまつりしことこそあさましけれ。し(『神皇正統記』醍醐天皇条)と同じ視点である。そして、讒奏に惑わされ道真を左遷した醍醐天皇について「此君の御一失と申伝はべり」(同前)とその過ちを認める。ただ、親房は「此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年の故にや、左相の讒にもまよはせ拾けむ。聖も賢も一失はあるべきにこそ。」(同前)と幼さ故の醍醐天皇の未熟さを擁護することで、道真左遷の罪を首謀者時平に限定する。近世に入って、林鷺峰が「天皇ノ弟ヲ齊世親王卜云。菅丞相ノ婿ナリ。故ニサキニ宇多ノ譲位ヲヲサへトドメラレケルハ。齊世ヲ太子二立ントタクミナリト。時平奏聞セラレケルトナン。天皇今年十七ナレバ。其実否ノ沙汰モナカリケルカ。時平代々ノ執政ニテ。威強テ専二執行ヒケルトキコへシ。」(『日本王代一覧』醍醐天皇条)と、その讒奏の内容が皇位継承に関わった事を明確にした。この事を裏付けるのが、醍醐天皇の道真左連の宣命である。そこには、道真が「欲行廃立。離間父子之慈。淑皮兄弟之愛。」(『政事要略』巻廿二 年中行事八月上〈北野天神会〉)と、醍醐天皇を廃して齊世親王を立てようとしたとあり、その事が罪状の中心となっている。新井白石の『読史余諭』に『神皇正統記』『日本王代一覧』が引用され、伊藤梅宇の「左大臣時平おもへらく、われ摂家の身として微賤の凡人と相ならんで国政をとり、却っておされたる事を恨みて光卿定国などと謀りて、当今の齊世親王は菅丞相の聟となればこれを帝位につけ申さんと謀れる由を讒奏し給ふ。」(『見聞談叢』巻之一、四 菅原道真)、また安積澹泊の「讒を信じて姦を容れ、大いに主徳を累はせしは、啻に道真の不幸なるのみならず、抑々亦、帝の不幸なり。」(原漠文。『大日本史列伝賛藪』巻三上、菅原道真伝の賛)と時平(及びその一派)の讒奏が道真の不幸を招いたという認識に変化はない。その認識は、秋成が愛読した禅僧日初の『日本春秋』の「貶右大臣菅原道真為太宰権帥〈二十五日〉、先是上朝覲朱雀院、法皇謂上日、道真年高才賢挙国之所望也、宜任用、乃召道真宣其旨、時平聞之大忌、於是竊與源光、藤原菅根等屢讃之、方是時、時平妹穏子為皇妃、上皇落飾之後嬖於本朝、又菅根淵子入内承寵、是以内外讒行、道真為其女婿齊世親王謀廃立云、上不察虚実卒黜道真。」(延喜元年正月条)においても同じである。秋成以前、道真左遷に関わる歴史認識に大きな差異は見えない。しかし、『春雨物語』「海賊」に現れた「菅相公論」【注(1)】は、道真の寵臣性を際立たせ、左遷の原因を道真自身に求めるなど、宣命の「右大臣菅原朝臣寒門与利俄尓大臣上収拾利。而不知止足之分。有専権之心。以佞諂之情欺惑前上皇之御意。」(『政事要略』巻廿二)に通じ合う視点を持ち、それまでの道真諭とは異なる。本稿では、その意味を、秋成の不遇薄命説との関わりから論じてみたい。

収録刊行物

  • 岩大語文

    岩大語文 2 1-7, 1994-06-01

    岩手大学語文学会

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