身体の量子飛躍 - 東洋と西洋、小説と宗教を越境する  [in Japanese] A Way to Bodily Quantum Leap  [in Japanese]

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Abstract

ひたすら座禅すること、只管打坐を説いた道元(1200-53)は『正法眼蔵』「渓声山色」で次のように述べている。正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに八万四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、渓山また恁麼の不惜り。たとひ渓声山色八万四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜来なりとも、渓山の渓山を挙似する尽力未便ならんは、たれかなんぢを渓声山色と見聞せん。正しい修行、正しい信心、正しい清浄な身体に谷川の音や姿も山姿や音も八万四千にも及ぶ数限りない詩的な言語表現を惜しまない。名声や利益や身心などに執着せず、極限状態まで死力を尽くして自分を捨て去った時、谷や山はおのずから人間の方に訪れる。この時、人は谷川であり山である。谷川や山はその人である。身体の量子飛躍と言ってもよかろうが、身心脱落すれば、万物・自然は人間に対して惜しまず自らを語るのだ。しかしどんな「ことば」で語るのだろうか。そしてこのような宗教の奥義・秘儀とも、真理とも、悟りとも言うべきことがらは、所与の言語で語ることができるのだろうか。前期Wittgenstein は語り得るものと語り得ないものの二元論を考え、語り得ないものは語れないと結論した。竜樹は世俗諦と勝義諦の二諦説に立ち、勝義を語る言語の可能性を捨てはしないが言語の限界を深く認識していた。両者の共通点を考察して星川は、真理は言語によって直接語ることはできないが、間接に示すことはできると論じている。真理と言えば宗教の奥義や悟りの言説を考えるであろうが、広義に自己と世界のありようについて考えれば、悟り(realization)とはそれらの物語言説(story)に到達することである。このような意味での悟りを含む真理を間接的に示すものの一つに、神話や物語-小説などの文学作品-があろう。本論では現代アメリカ小説にそれを探してみたい。そこに発見されるのはキリスト教の真理であろうか、それとも仏教の真理とも共通するような普遍的な宗教的真理であろうか。仏教では「あらゆる相対的な別け隔てによる決めつけを超えて一切の分別的判断に束縛されない」存在のありようをめざす。このことが実体的に物事を捉えて悩み惑う生き方から脱することに通じるからである。これは「心」の問題というよりはそれと一体となっている身体自体-あえて言えば、身即心であり心即身である在りよう・場-の問題であろう。身心一如となり分別的判断のマトリックスから脱するには、身体が言わば量子飛躍する必要がある。とすれば、それはいかにして可能になり、どのようなもので、その真理は宗教や小説のいかなる言説に示唆・展開されているであろうか。また西洋と東洋の言説で違いがあるのだろうか。

Journal

  • 文化共生学研究

    文化共生学研究 6(1), 53-68, 2007-03-31

    岡山大学大学院文化科学研究科

Codes

  • NII Article ID (NAID)
    120002304771
  • NII NACSIS-CAT ID (NCID)
    AA11823043
  • Text Lang
    JPN
  • Article Type
    departmental bulletin paper
  • ISSN
    1880-9162
  • Data Source
    IR 
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