Bhavya's Critique of the Sāṃkhya Theory of pratibimba

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初期サーンキヤ派が導入した学説の一つにpratibimba(影像)説がある。この学説は、原質(prakṛti)と純粋精神(puruṣa)との二元論に立脚する同学派にとって、いかにして、原質由来の非精神的な知性(buddhi)等が知覚という精神的ともいえる行為をなし、他方また、行為主体でないと規定された純粋精神が対象を知覚しその結果を享受する行為をなしうるのか、という根本問題への回答という文脈において導入された。じっさい同学派において純粋精神は、行為主体でなく、変化することがなく、遍在すると規定される一方、見る者、知る者、結果を享受する者等と伝統的に特徴づけられている。// サーンキヤ派のpratibimba 説については従来の研究も少なくない。『中観心論』Madhyamakahṛdayakārikā およびその注釈『論理炎論』Tarkajvālā を通して、バヴィヤによる同学説批判を論じた研究も複数ある。しかしながら、これらはいずれも『中観心論』のサンスクリット語写本の公開と本格的な校訂研究以前の成果であり、同写本とその校訂作業を基礎にした本論題に関する再検証が待たれていた。一方また、同派のpratibimba説は、イーシュヴァラクリシュナ(4–5世紀)作『サーンキヤ・カ-リカー』には見られず、伝説では第二祖のアースリ頌に帰せられるという。しかしながら、じっさいに同偈頌が引用されるのは、後代のヴァイシェーシカ派やジャイナ教徒等の手になる論典あるいは注釈文献であり、そのテキストと解釈についても今なお問題を残している。// このような意味で、『中観心論』およびその注釈『論理炎論』の第6 章「サーンキヤ派の真実[説への批判的]入門」は、サーンキヤ派による最初期のpratibimba 説を伝える資料としてきわめて重要である。本稿では、総計65偈からなる同章の中から、pratibimba 説の前主張を示す第2偈、および後主張にあたる第22,23両偈を、それぞれに対するバヴィヤの注釈内容とともに分析する。これと併せ、『中観心論』第3章「真実知の探求」第53偈と同偈に対する注釈を手掛かりとして考察し、以下のような結論を得た。// (1) バヴィヤが紹介するサーンキヤ派のpratibimba 説によれば、純粋精神は、その上に月の影像などが映し出される静かな水に喩えられる。すなわち、影像を映す水に喩えられるのは知性(buddhi)ではなく純粋精神(puruṣa)である。// (2) したがって、このばあい静かな水に喩えられる純粋精神は、知性によって確認された知覚対象を間接的に映し出すのであり、あたかもその映像の前後において水自体に変化がないように、純粋精神そのものに変化はないとサーンキヤ派は主張する。// (3) 以上のような前主張に対して、pratibimba 説は「他のものを生じる原因とはならない」「変化しない」等といわれる純粋精神の特質に矛盾する、とバヴィヤは批判する。// (4) バヴィヤはまた、初期のサーンキヤ派には、純粋精神が知性に似てはたらくことの理由を、pratibimba 説とならび、純粋精神の変異(pariṇāma)によると説く学説があったことを紹介する。この学説に対してバヴィヤは、精神性、非原因、遍在性という純粋精神本来の特質との矛盾を指摘して批判を加える。

Journal

  • インド哲学仏教学研究

    インド哲学仏教学研究 (18), 13-22, 2011-03-31

    東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室

Codes

  • NII Article ID (NAID)
    120003133702
  • NII NACSIS-CAT ID (NCID)
    AN10419736
  • Text Lang
    ENG
  • Article Type
    departmental bulletin paper
  • ISSN
    0919-7907
  • Data Source
    IR 
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