玉井忠純氏による土岐健治著『[改訂新版]新約聖書ギリシア語初歩』(教文館、1999年)への批判

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抄録

玉井忠純氏は、1938年生まれで、東京大学法学部を卒業後、1998年に退職するまで三井信託銀行に勤務した。宮司の息子でありながら、大学在学中から文語訳聖書に親しんでいたが、福岡勤務中の1980年に、私が協力牧師をしている平尾バプテスト教会でバプテスマを受けた。現在は津田沼バプテスト教会の会員である。著書に『パウロ様への恋文』(文芸社、2000年)があるが、その経歴が示すとおり、玉井氏はギリシア語の専門家ではない。しかし、大いなる熱意をもって古典ギリシア語をまず学び、その上で新約聖書のギリシア語の原典を丹念に読んでいる。毎夏信州伊那谷において私青野が講師として招かれて開催されている新約聖書原典講読塾(主催者はそれを青野聖書塾などと呼んでいるが)の、熱心な参加者でもある。そのような学びの過程で、玉井氏は土岐健治氏の『[改訂新版]新約聖書ギリシア語初歩』(教文館、1999年)からも学び、そこから以下のような批判文を認め、さらに、極めて独自な「原初的ギリシア語動詞に関する推論」をも展開した。玉井氏の文章を私青野が逐一監修したので、文責は私にも等しくあるが、「素人」の玉井氏の述べる内容には傾聴すべきものが多く含まれていると思うので、以下に私の責任で本稿を本『神学論集』に掲載することにした。もちろんこのような批判は、本来、日本語の、そしてまた欧米語の他の多くのギリシア語文法書との折衝の中で比較検討しつつ展開されるべきであることは言うまでもないが(もっとも玉井氏は、すでに大貫隆著『新約聖書ギリシア語入門』〈岩波書店、2004年〉への批判文をも書き上げている)、しかしこれ自体でも大きな意味をもっていると思われる。議論の深化へのきっかけの提供となり得るならば、それはわれわれの喜びとするところである。

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