<共同研究報告>『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』 : その基礎的考察

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タイトル別名
  • A Basic Study of the Articles of Emperor Uda's Diary : Quoted in the Akō Section of the Seiji Yōryaku
  • 『 セイジ ヨウリャク 』 アコウジショイン ノ 『 ウタテンノウ ゴ キ 』 : ソノ キソテキ コウサツ

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抄録

「阿衡の紛議」とも言われる阿衡事件は、仁和三年(八八七)に皇位に即いた宇多天皇が、太政大臣藤原基経にどのような職務を与えるかということで起きた政争である。

宇多天皇の父光孝天皇は基経に執政の地位を与えたが、その職務の中で最も重要なものが全ての上奏・宣下案件の諮問を受けるというものであった。宇多天皇も基経による補佐を望み、彼に執政の地位を与え、全面的に諮問を受けるという職務を関白の語を用いて表現した詔書を出し、それが関白の濫觴となったのである。ところが、基経が提出した辞表に対する勅答において、彼に与える執政の地位を中国古代の官「阿衡」を用いて表現したことから、彼の執政を停止することを意図したものとして問題視され、勅答の作者で宇多天皇の皇子二人の外祖父であった橘広相の処罰問題に発展したのである。

この阿衡事件に関する基本史料を収めているのが、『政事要略』巻第三十、阿衡事であり、その中に『宇多天皇御記』仁和四年の記事八条が抄出されている。本稿では、この『宇多天皇御記』の各条について基礎的な読解を行った。その成果として、

一。仁和四年六月一日に御前で行われた学者たちの議論が決着を見ず、基経に仁和三年の最初の詔書によって執政するよう求めたものの、阿衡問題の解決が先決と拒否された結果、勅答を改めて施行する詔書を作成・施行することになった過程。

一。十月に入ってからの広相の量刑問題と、天皇が基経の娘温子を後宮に入れるという譲歩策を講じたことが、『御記』十月二十七日条とどのように関わるかという問題。

一。「六月三日」の記述とされてきた十一月三日条をその通りに理解すれば、十一月に入京した菅原道真が基経に送った「奉昭宣公書」との関係付けが可能になること。

などの問題点を多角的に再検討することが可能になったと考える。

収録刊行物

  • 日本研究

    日本研究 44 355-376, 2011-10-23

    国際日本文化研究センター

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