多花性と共価性 : 日本人の異文化受容をめぐって

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タイトル別名
  • Takasei and Kyokasei : The Japanese Disposition for Digesting Outside Cultures
  • タカセイ ト キョウカセイ ニホンジン ノ イブンカ ジュヨウ オ メグッテ

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抄録

人間の存在そのものが多重的複合的であるように、人間のつくり出す文化も多種多様なものの総合体である。現在の日本文化も、日本列島の外からの文化や文明を受け入れていく過程のなかで、つくりあげられてきた。多種多様なるものが併行して、あるいは重なり合って存在してきたのが日本の文化の様相であろう。それを日本文化の「雑種性」とか「雑居性」とよんだ人もいる。

価値フリーで言葉をつかったとしても、一般には「雑種」は低く見られ、「純粋」の方が上等であると見られる傾向が存在している。「純粋」は「雑種」を排除し、ときには原理主義、正統主義をかざして過激な行動をとりやすい。しかし私も含めて日本人は、純粋への憧憬をどこかにもってしまうものなのかもしれない。

地球上の民族の興亡を見てみると、雑種を是とし多様なる文化をとりこんだところは、みずからの文化を強くし、歴史上に輝く業績をあげたことがみとめられる。多くの花々が、それぞれに咲きそよぐ状況を積極的に捉え得るものが「多花性」」という言葉に託された意味である。

本稿では、縄文時代からの日本の文化の様相について先達の研究業績をふまえながら、そこに見られる「多花性」が現代日本の文化状況のなかに、顕著にみられることを述べる。

日本人にとって異文化の代表格とされてきたイスラーム文化をとりあげて、日本人の異文化受容のありようを、文献とフィールドワークから検証してみた。そこで浮かびあがった実態は、日本文化の雑居性とか雑種性という言葉で表現されるよりは、「多花性」と呼ばれていいものであった。

人間のつくりだす文化には、他の文化にも通ずる価値が底辺に存在する、すなわち通底性があるという仮説の一歩としても、他の文化とは距離があるとおもいこまれているイスラーム文化について検討してみた。その結果、イスラーム文化が、日本人にとっては異質なものとして受容されているのではないことが明らかになった。仏教や神道との共通性も浮かび上がってきた。それを多花性のなかの通底価値、すなわち「共価性」と、よんでみることにした。

戦後六〇年になる昨今、「ひとつの日本」への収斂がおこってきている。ひとつの花を咲かせようとする風潮、一花性をもつ日本を求める傾向が顕著に出てきた。そういう傾向の強い現今の状況であるからこそ、「日本の多花性」を検討してみる必要があると考える。

縄文から平成というとてつもない時空間を取り上げる結果は、いわゆる「論文」にはなり得ないかもしれない。しかし従来の論文のように、専門的に物事を細分化し分析していく手法だけでは全体を見失う危険性が高い。物事の本質を見誤ってしまう危惧さえある。

理で解するすなわち「理解」だけでなく、情や勘や感性で解く「情解」というべきものもあって、初めて全体的な「諒解」をなすことができるのではなかろうか。そういったアプローチの試みでもある。

収録刊行物

  • 日本研究

    日本研究 35 19-78, 2007-05-21

    国際日本文化研究センター

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