戦前期の行幸啓からみる公会堂の公共性―北海道・岩手県・福岡県における現地調査報告②―

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  • センゼンキ ノ ギョウコウケイ カラ ミル コウカイドウ ノ コウキョウセイ : ホッカイドウ ・ イワテケン ・ フクオカケン ニ オケル ゲンチ チョウサ ホウコク(2)

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抄録

type:P(論文)

本稿は公会堂を戦前期の日本「内地」に設置された公会堂と天皇制の関係から、当時の日本で理解されていた公共性について、詳細に把握し、考察することを目的とした研究報告である。2014年7~8月に行った現地調査の詳細な報告で、図版を中心に紹介することを目的としている。本稿で対象とする時期は1900年前後から1937年である。新聞に公会堂の文字を確認できるのは1880年代後半からであるが、その頃はまだ、議事堂や教会、倶楽部など既存の建物の呼称として使用されていた。「公会堂」という多目的な集会施設が設置され、それが様々な役割や機能を担うようになるのは奈良公会堂(1903年)や中之島旧公会堂(1903年)が設置される頃からであると考えられるため、1900年を区切りとした。また日中戦争開戦により戦時下となった日本「内地」では資材不足によって公会堂が新設されなくなり、大規模な行幸も行われなくなることから、1937年までを対象とした。天皇が一か所を訪問することを「行幸」、二か所以上を訪問することを「巡幸」、皇太子のそれを「行啓」「巡啓」と呼び、両者を併せて「行幸啓」と呼ぶ。本稿では天皇だけでなく、皇太子が公会堂とかかわった事例にも目を向けるため、タイトルに「行幸啓」を採用した。また「天皇制」は1945年の終戦以降「象徴天皇制」へと、その意義を大きく転換させるが、ここでは単に戦前期の天皇を頂点に置いた統治システムのみを指すのではなく、それを支えてきた国民の意識をも総称する言葉として捉え、当時の日本人が「公」をどのように理解してきたのかを解明したい。

This paper is a survey report of research on the relation between public halls built in "inland " Japan and the Imperial System that existed in the prewar period and the understanding of public halls in Japan those days. The subject period spans from around the year 1900 to the year 1937 in the prewar period.Although the sense of "the Imperial System" as "a system that recognizes the Emperor as a symbol of the state" was changed dramatically in 1945, it is not intended to simply study the governance system with the Emperor as its pinnacle in the prewar period but to have a firm understanding of the people's sense and the generic terms that have supported this idea and also to clarify the way Japanese people understood the word "public" in those days.

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