<論説>平安時代における皇統意識 : 天皇御物の伝領と関連して

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タイトル別名
  • <Articles>The Lineage of the Imperial Throne in the Heian Period : In Connection with the Hereditary Treasures of Emperors
  • 平安時代における皇統意識--天皇御物の伝領と関連して
  • ヘイアン ジダイ ニ オケル コウトウ イシキ テンノウ ギョブツ ノ デンリョウ ト カンレン シテ

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抄録

本論では、平安時代における天皇の御物を取りあげ、その保管と伝領を切り口として、平安期における皇統のありかた、及びそれに対する認識について考察した。その結果、まず、天皇御物の管理体制の転換期が宇多・醍醐朝に認められた。この時期天皇御物は清涼殿と宜陽殿納殿に整理し直され、その管理も女司から蔵人の手に移っていった。そして、後に「累代御物」として定着する、皇位継承に伴って新帝に伝領される御物のいくつかが光孝・宇多に由来をもつものなのである。その背景には、御物に対する天皇の認識が関わっている。すなわち、文徳~陽成から光孝への皇統の転換にあたり、光孝・宇多・醍醐らは、その正当性と権威を託す対象として天皇御物をとらえ、それを累代御物として伝領していくことで、自らの皇統に、鶴の皇統とは異なる権威を与えようとしたのである。本流と傍流を区別する思想が明らかに見られるのが、十一世紀初めの一条朝における両統迭立期である。そしてそこには、中国王朝の交替になぞらえた「反正」という概念が持ち込まれていた。即ち、たとえば王葬によって途絶えた前漢を再び興した後漢の光武帝が「反正」の君であったように、光孝や一条が「反正」の君であったとみなされていたのである。そして、光孝以降に創られた累代御物と同様、円融系の天皇によって和琴鈴鹿が累代御物に加えちれ、その後も伝領されていく。光孝以降の累代御物と同様、それは他の皇統とは独自の正当性を有することを示すための、つまりその皇統のための累代御物として出発したものであったが、やがて全ての天皇が継承すべき累代御物として伝領されていく。そのような累代御物となった時、その皇統が「本流」であるという観念は、目に見える形として示されるのである。

収録刊行物

  • 史林

    史林 84 (4), 537-570, 2001-07-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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