木村文助における綴方教育の模索と展開

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タイトル別名
  • キムラブン ジョ ニ オケル ツズリカタ キョウイク ノ モサク ト テンカイ
  • Exploring and Expanding upon the Writing Pedagogy of Bunsuke KIMURA

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抄録

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木村文助には,「『赤い鳥』綴方から生活綴方へのかけ橋」(滑川道夫)という歴史的評価がなされてきた.しかし,木村が『赤い鳥』綴方に出会ったのは同誌が創刊された 1918(大正7)年から4年目にあたる 1921(大正10)年のことであった.その時期までに,木村は小学校教員を20年近く務めており,綴方教育の研究と実践において試行錯誤を重ねて来ていた.その結果,自らの綴方教育の方向性に確信をもったのが,1920年度から 1921年度の時期であった.ここでは,1921年度に至る木村の綴方教育の模索と展開の検討をおこなう.

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