明治七年刊の「繁昌記物」をめぐって(上)-服部誠一・萩原乙彦・高見沢茂-

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タイトル別名
  • メイジ ナナ ネンカン ノ 「 ハンジョウキブツ 」 オ メグッテ(ウエ)ハットリ セイイチ ・ ハギワラ オツヒコ ・ タカミ サワモ

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抄録

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明治七年(一八七四)の春から夏にかけて、服部誠一(以下、撫松と記す)『東京新繁昌記』、高見沢茂『東京開化繁昌誌』、萩原乙彦『東京開化繁昌誌』の三著が引き続いて刊行された(参考図版1・2・3)。文体も作者の立場もそれぞれ異なっているが、この中で一世を風靡したのが撫松の『東京新繁昌記』だったことは明治文学史の常識である。以後、所謂「繁呂記物」か次々に生みだされた。しかし、人気売れ行き共に『東京新繁昌記』に及ぶものはなかった。それ以外は文学史の中から消え去ってしまったのである。それゆえ、今となっては、乙彦と高見沢の同名書『東京開化繁昌誌』も、撫松の後追いにしか見えないかもしれない。しかし、それはたまたま同時期の刊行となったまでのことで、乙彦も高見沢も、お互いはもちろんのこと、撫松の著も視野には入っていなかった。

収録刊行物

  • 文芸研究

    文芸研究 137 133-150, 2019-02-28

    明治大学文芸研究会

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