琉球と日本の文化交流―首里城と万国津梁の鐘の狭間―

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  • Cultural exchange between Ryukyu and Japan

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抄録

縄といえば、中国の影響を強く受けた結果、独自の文化が花開いた、というのが一般的なイメージではなかろうか。そしてそれを象徴するのが首里城ということになろう。しかしこれは、薩摩侵攻後、中国との冊封関係を維持するため、琉球自らが中国化政策を推し進めた結果であり、それ以前の琉球文化は、圧倒的に強く日本からの影響を受けて歴史的な展開を見せてゆく。文献史学からの琉球の時代区分は、一六〇九年の薩摩侵入以前の古琉球期と、以後の近世期に区分されるが、日本からの影響は、古琉球期により強く見られ、近世期にそれが中国風へと変容してゆく。例えば、平成に復元された、我々が目にしていた首里城は、一七一五年、近世期のものを再現したものである。であるから、その姿は中国の紫禁城を思わせ、中国風ということになる。首里城以外に、沖縄の歴史と文化を象徴するとされるもう一つの文化財に、万国津梁の鐘があろう。王国時代、首里城の正殿に掲げられていたこの鐘には、銘文が刻まれており、「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二つの中間にありて湧き出ずるの蓬莱島なり。舟楫をもって、万国の津梁となし、異産至宝十方刹に充満す」とする。銘文末尾には年次もあり、西暦で一四五八年、古琉球期のものである。銘文冒頭で「琉球国は南海の勝地にして」としているわけであるが、東西南北の方角は、あくまでも基点に対する相対的な位置関係である。琉球を「南海」と言っているその基点は、あくまで琉球の北方にあり、これは日本からの目線で書かれた銘文ということになる。つまり、古琉球期の文化財からは、日本との濃密な関係がうかがえ、近世期の文化財からは、中国との密接な関係がうかがえるということになる。古琉球期、このような文化交流の架け橋になったのが、仏教僧達であった。近世琉球仏教の基礎を確立したのは、古琉球期に日本から渡来した僧侶達であったが、古琉球期の僧侶達は同時に、琉球と日本の国家間交渉の役割をも果たしていた。特にその働きは、室町幕府で外交官として日中交渉に任じていた臨済宗僧侶に顕著に見られる。その僧侶達の手によって、仏教以外の様々な文化交流が進み、草書文字や茶などは近世琉球社会に深く浸透していくことになる。

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