価値の世界と可能な世界 (素描)

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タイトル別名
  • カチ ノ セカイ ト カノウ ナ セカイ ソビョウ

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抄録

壁にかかった (たとえば) ゴッホの作品に見入っているとき、わたくしの感じとっているのは、単にさまざまな色や形をした顔料の連続体ではない。そのような顔料連続体を媒体にしながらも、その向うに、壁をつきぬけて拡がっている別世界、いわば「ここ」にある極めて「日常的」なカンバスや顔料や壁やを切り披いて「かなた」に開ける「非日常的」な世界である。(もともと「ここ」から「かなた」を見通すことper-spicereが「遠近法」ということの意味であった。) <BR>同様にして、ベートーベンのソナタも、リルケの詩も、たとえば物理学の視点からすれば確かにさまざまな音波や線模様の系列にすぎないけれども、しかし、本来そのようなものとしてわれわれに聞え、あるいは読めるのではない。それらは、われわれを否応なしにとらえ、この凡庸で可変な日常性の此岸から、かの非凡で不変な非日常性の彼岸へと、われわれをいざなう。あるいは、「現実 (actual) 」のこの世界とは似て非なる、別の可能な世界を「真実 (real) 」なものとして、われわれに覚知させる。<BR>この事情は、与えられた対象が芸術作品である場合に限らない。ひとの気高い行為に心を打たれているときにわれわれが見てとっているのは、そのひとの単なる身体の姿勢や運動経過だけではないし、孤島の断崖に立って青い海と空の地平に身をゆだねているときにも、われわれの覚知しているのは、化学的なH2Oや、ある種の混合気体の大塊が反射している太陽電磁波の一部なのではない。そのような姿、形、色、運動経過のごときがわれわれの全視野を蔽っているにもかかわらず、われわれはそれらの「かなた」ないし「背後」へと瞳をこらさざるをえないであろう。あるいは、そのような思いを生じさせない自然現象や人間のふるまいを、さして価値あるものとは感じないであろう。<BR>このように、われわれにとって「価値あるもの」とは、われわれのまなざしをとらえて放さず、「ここ」に「いま」あるこの世界から、「かなた」の「永遠」なる世界へとわれわれをいざなうもの、とは言えないであろうか。あるいは、少なくともそのような永遠世界との関わりの覚知度に応じて、与えられた物事の日常的な比較考量がなされ、価値の順序づけがなされ、毀誉褒貶が行なわれているのではないだろうか。<BR>とは言うものの、翻って、それら価値あるものを価値あらしめているもの (「価値」ないし「よさ」) がいったい何であるのか、と問われたりすると、われわれはたちまち困惑してしまう。こうした問いに敢て答えようとすれば、与えられたこのものの色や形がどうの、音調がどうの、動きがどうの、自分の感じがどうの、といった諸事実を、いわば評論家ふうに言挙げし、列挙する以外、全く方法がないからである。<BR>問うこと、答えること、いずれも言語に依らないではできないことであるけれども、その言語は、与えられた物事を諸側面へ分割 (分別) した上で繋ぎ合わせるようなつくろい仕事に適しているだけで、与えられた物事の全体を一つのものとしてじかに記述することができない。一なる全体をそれとして示すためには、それをそのつどの個有名で呼んでみるか、あるいはさまざまな言辞を弄し、雑多な部分から成るモザイク模様でこれを表現すべく努力するかする他ない。詩人はもとより、画家や音楽家も、ともに有りあわせのことばや顔料や音響やを組み合わせて、与えられたこの何かを再現 (represent) し、あるいはそこへ立て (dar-stellen) ようとしているのではないだろうか。そして、もし哲学が言語なくしては存立しえないとすれば、哲学もまた (その愛や意図や希求を別にすれば) 畢竟ことあげのモザイク模様をみずからの作品として提示しようとする凡夫の業に他ならないであろう。にもかかわらず、この業なくしては何事も問えず、語れず、理解できないということ、これこそ「言語をもつ動物」に個有の宿命と謂うべきではなかろうか。<BR>以下、「価値あるもの」がいわば受動的に与えられて生ずる評価ないし価値認知の場面と、これを能動的に実現しようとする行為の場面のそれぞれにおいて、「価値の問題」がどのように立ち現われてくるか、つぎはぎ模様ながら素描しておきたい。

収録刊行物

  • 哲学

    哲学 1976 (26), 51-66, 1976-05-01

    日本哲学会

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