20世紀前半期の満洲への漢人の流入について
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- 藤田 佳久
- 愛知大学文学部
書誌事項
- タイトル別名
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- The migration of Han people to Manchurian area in the beginning half of the 20th century:
- Based on the documents written by the students of the Toa Dobun Shoin College
- ―東亜同文書院生の調査旅行記録から―
抄録
1 目的<BR> 本研究の目的は、20世紀前半期の満州に漢人が集中的に流入したさいの、中国本土のうちの流出地、満入先、流入時期、流入者の特性、流入地域の拡大とその背景について明らかにするところにある。<BR> <BR> 2 方法<BR> 方法としては、その時期に集中的に満州地域へ調査の足を伸ばし、漢人の満州移動状況を観察、調査した東亜同文書院学生による記録を利用した。<BR> 東亜同文書院は1901年、上海に開学し、終戦の1945年までの半世紀にわたって中国との貿易実務者を養成するビジネススクールとして存続し、中国調査研究の発展によりそのアカデミックさが認められ、大学へ昇格した。徹底した中国語教育とともに、1907年から本格的な中国および東南アジアの「大旅行」調査が行われ、その成果とともに書院の大きな特徴となった。<BR> 「大旅行」は最高学年で実施され、学生たちの自由な調査旅行テーマと旅行日誌が記録された。各学年1班2~5人ほどの10~20班が組織され、3~5ヶ月間徒歩による調査が行われた。その総コース数は700に達し、とりわけ旅行日誌は毎日の旅行コースと沿線状況、会った人々、料理などが生き生きと描かれ、近代中国の様子を十分にうかがい知ることができる。<BR> 満州事変直後の2年間、民国政府は中国国内旅行をめざす書院生へのビザの発給を中止し、書院生は心ならずも満州地域にフィールドを設けざるを得なかった。それ以前にも満州各地の調査を行った班もいくつかあったが、この2年間の調査でほぼ満州全域を同時に把握できることになった。その記録の中に漢人の満州への移動がみられることになり、それを本研究のベースとした。<BR> <BR> 3 まとめ<BR> (1) 満州は満州族の聖地として位置づけられ、清国時代、とりわけ19世紀までは漢人の満州入りは禁止されてきた。しかし、19世紀後半以降、満州がロシア勢力の南下によって保全がおびやかされるようになると、清朝政府は領域の一部を漢人の農業移民に開放し、ロシア南下の防禦にしようとした。<BR> (2) この動きは、民国期になるとさらに活発になり、多くの漢人が満州へ入るようになった。当初は夏季中心の出稼であったが、次第に入植定着する農民が増え、1920年代にはそのピークを迎えた。こうして毎年100万人もの漢人が入植し、遊牧の民・満州族の牧地を手に入れ、満州族を周辺へ追いやる形で南満さらに中満へと入植地を拡大し、一部は北満へも入植した。<BR> (3) 彼らの出身地のほとんどは山東半島のある山東省である。これは山東省の将軍がこの時期に隣接省との戦争をつづけ、農民は兵士として徴用され、また食料や家畜を徴発されたこと、また折しも災害が発生するなど、山東居民の条件が悪化したことがあった。それが海を渡れば目と鼻の先、そして次第に日本による満州経営による労働力需要が彼らを引き受け、また満鉄も船と鉄道を彼らのためにほとんど開放したりした。
収録刊行物
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- 人文地理学会大会 研究発表要旨
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人文地理学会大会 研究発表要旨 2009 (0), 18-18, 2009
人文地理学会
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390282680569866240
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- NII論文ID
- 130004596663
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- 本文言語コード
- ja
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- データソース種別
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- JaLC
- CiNii Articles
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- 抄録ライセンスフラグ
- 使用不可