初期唯識文献における他者の分別 Conceptualization (<i>vikalpa</i>) of Other Sentient Beings in the Early Yogācāra Texts

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Abstract

<p>瑜伽行派は唯識思想を主張し,外界の認識対象の実在性を否定したことはよく知られている.当然のことながら,その外界の中には他の衆生の存在も含まれる.しかし,大乗仏教は衆生救済を標榜しているので,唯識という立場に立ち,他者の存在を自己の認識の所産と見なすことは,大乗の基本的な理念と抵触するように思われる.</p><p>これに対して,唯識への悟入は瑜伽行派の思想において到達点ではなく,衆生の教導という目的に到達するための過程に過ぎないとする見解がある.これを踏まえて唯識文献を見なおすと,例えば『成唯識論』では,資糧位・加行位・通達位・修道位・究竟位の修行の階梯のうち,第二番目の加行位で所取・能取を離れた唯識性を了解し,通達位以降でさらなる真理へと昇華させると同時に,衆生を唯識性の理解に導くことが説かれている.また,『摂大乗論』も加行道において唯識へ悟入した後,菩薩の十地の初地にあたる歓喜地に入り,六波羅蜜に集約される菩薩行の実践が行われることになると説いている.このように瑜伽行派の思想において,唯識性は修行の完成の境地ではなく,菩薩行の入り口である.そして,その菩薩行においては,教導されるべき他者との関わりが重要な意味を持っている.</p><p>瑜伽行者の修行の完成と他の衆生の存在の関わりについて,最も端的に述べているのは『摂大乗論』であろう.それによれば,一人の修行者が唯識性を証得したとしても,他の人々の判断(分別)がはたらいている限り,外界に相当する器世間が消滅することはないという.その背景に『瑜伽師地論』「摂決択分」があることはすでに指摘されているが,「摂決択分」でも,他の衆生の存在によって器世間が意味づけられている.唯識思想を研究する上で,他者の存在に着目することは重要な意義があると考える.</p>

Journal

  • Journal of Indian and Buddhist Studies (Indogaku Bukkyogaku Kenkyu)

    Journal of Indian and Buddhist Studies (Indogaku Bukkyogaku Kenkyu) 65(3), 1236-1242, 2017

    Japanese Association of Indian and Buddhist Studies

Codes

  • NII Article ID (NAID)
    130006539258
  • Text Lang
    ENG
  • ISSN
    0019-4344
  • Data Source
    J-STAGE 
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