諸宗の制度的兼学と重層的(包摂的)兼修

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タイトル別名
  • The institutions of concurrently studies and the multi-layered combined studies in schools of Buddhism.
  • ショシュウ ノ セイドテキ ケンガク ト ジュウソウテキ(ホウセツテキ)ケンシュウ

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抄録

    奈良・平安期の日本仏教界における諸宗兼学は、大きく分けて「制度的な問題としての兼学」と「重層的(包摂的)な兼修という事態」とが存在する、と考える(実質的には鎌倉期まで含まれるが、室町期以降については、現在の筆者には把握できていないので、今は取り上げない。ただし「制度的な兼学」が機能しなくなっていたとしても「重層的(包摂的)な兼修という事態」は近世末まで継続していたと思われる)。ここでいう「制度的な兼学」とは、太政官符などによって知られる朝廷の律令制度(格)上の問題として規定される諸「宗」を兼学することである。しかし一方では、それとは異なる形で諸「宗」を重層的(包摂的)に位置づけた諸宗の兼学・兼修という事態が存在する。この問題については「宗」の語の意味を含めて、まだ十分な議論・認識がなされていないと思われる。この問題については、筆者も以前に少しく述べたことがあり(1)、また堀内規之氏(2)も触れておられるが、今回はそれらを踏まえた上で些か再考したい。<br>  ところで日本史学では、仏教が日本に伝えられた当初に「三論衆」「法相衆」と呼ばれていたものが、後に「三論宗」「法相宗」に変ったと説明されることがある。これは「宗」と「衆」とが同じ意味であることを前提とする。しかしこのような説明は、日本の史料の中のみで作られた理解であり、仏教が中国から伝えられたことや、当時の中国仏教界で「宗」の語がどのような意味であったのか、という問題を無視した議論と言えよう。或いは当時の日本人が、新しく伝えられた中国仏教について、その教理についても、教団的在り方についても、全く理解できなかったと言うのであろうか。少なくとも中国仏教において「宗」は教の意味であり、衆徒を意味する用法は見いだせない。即ち「三論衆」「法相衆」とは「三論宗(を修学する)の衆徒」「法相宗(を修学する)の衆徒」の意味、その省略形であり、そのことは当時の日本においても十分に了解されていたと考える。<br>  既に田中久夫氏(3)は鎌倉時代の仏教を区別するに当り「鎌倉時代に天台宗といえば、天台の教学を意味し、教団の意ではない。それゆえに、天台宗・真言宗などと呼び、教団史的に区別するのは実態に相応しない」として「現実に存在したのは、南都北嶺と真言密教の教団(寺院)と地方におけるそれらの末寺である」と指摘しておられる。もっとも南都(東大寺・興福寺)は真言宗僧が顕教諸宗を兼学する寺院となっており、決して南都と真言密教の教団(寺院)とを区別することは出来ない。どちらにしても諸宗の兼学は奈良時代の南都仏教に固有の問題ではない。平安時代から江戸時代に至るまで、以下に論ずる「制度的な兼学」と「重層的(包摂的)な兼修」の問題は別にして、諸宗の兼学・兼修は、全ての僧尼にとって日常的なものであった。そもそも「宗」が教理・信仰の意味であることを前提として、初めてこの諸宗の兼学・兼修ということが理解できる、と考える。<br>  「宗」を人(衆=教団)と見る理解は、明治時代に西洋的法概念が導入され、そこで定められた宗教法人法によって規定された宗派教団に対する現代的常識によって成立した理解であろう。明治期以降の宗派教団は「法人」の概念によって、夫々に独立した組織(宗教法人)を形成し、その教団名として「宗」の語を冠した。このことが古代における「宗」概念にも影響を及ぼし、何ら反省されることなく適用されてきたのであろう。しかし江戸期以前の日本仏教界では、そのような概念も組織も存在しなかった。存在したのは「宗」を同じくする者の寺院の本末関係であり、本寺が末寺を支配する、その関係が「宗」を同じくするが故に「宗=教団」が存在するように見えるのかも知れない。しかし「出家得度の儀礼に拠って入門する教団」という意味において「教団」というものを捉える時、その「教団」は四方僧伽としての出家教団でしかありえない。中国・日本において「宗」の相違は問題とはされず、同じ四分律による授戒が行われてきた。たとえ叡山の大乗戒壇が允許され、大乗菩薩戒(金剛宝戒)によって大僧(比丘)に成ることが認められたとしても、四分律か菩薩戒か、の相違によって「宗」が異なることにはならなかった。則ち「宗」毎に別箇の教団が存在する訳ではない。インド仏教において、部派によって異なる律を受持し、授戒が行われたとしても、全国を遊行した彼等は、同じ精舎に同宿し、同じ托鉢の食事を分け合っている。ただ夏安居の終りに行われる自恣のみは、同じ部派の者同士が、精舎内の別々の場所に集まって行ったとされる。これは受持している律の本文・内容が部派によって異なるからではあるが、それ以外の場面において、部派の相違が「教団」的な相違を示すことはない。それは同じ「四方僧伽という教団」内の派閥的・学派的相違に過ぎないからであろう。確かに日本では、沙弥(尼)戒・具足戒の受戒制度が崩れ、その意味では正しい四方僧伽への加入が成立し得ていないという問題が存在するかもしれない。それにしても朝廷によって補任される僧官(僧綱)は、諸宗の相違を越えて僧尼全体を統制する機関であった。僧綱位が後に名誉職化して僧綱組織の実体が無くなり、仏教界における権威(又は単なる名誉)としての機能しか持たなくなったとしても、その補任に「宗」の相違を問うことはない。

収録刊行物

  • 智山学報

    智山学報 65 (0), 141-158, 2016

    智山勧学会

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