人類史における北海道 −考古学の視点から−

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  • 特別講演 人類史における北海道 : 考古学の視点から
  • トクベツ コウエン ジンルイシ ニ オケル ホッカイドウ : コウコガク ノ シテン カラ

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抄録

Ⅰ.はじめに 人類がアフリカで誕生したことを明らかにしたR.ダート博士は、その人類を「殺し屋のサル」と称した。古代メソポタミア、バビロニアの英雄・ギルガメシュも、王宮の守り神「ライオンを絞め殺す巨人」として描かれる。今日に目を転ずれば、無差別殺戮、移民・難民の排斥などの悲劇が世界に拡散している。歴史の生き証人、世界歴史遺産の破壊も報ぜられている。いずれもが、仮に捨て難き本性のなせる業とすれば、人類に未来はなかろう。 一方、近代科学が導入され始めた明治時代以来、日本列島人の起源を巡り、南方説がしばしば語られる。考古学は、混沌とした「虚実皮膜」の世界にまで分け入り、遺跡、遺物を通して人類が歩んできた歴史的事実を究める学問、とされる。はたしてどうか?  北海道の先史時代を話題の中心に据え、北半球の中・高緯度地帯に繰り広げられた人類のダイナミックな移動、ヒトとモノの交わり、豊かな心性世界などを紹介する。結びとして、日本列島人の起源論に関する今日的到達点を概述する。 Ⅱ.氷河期の極北に挑むホモ・サピエンス  700万年ほど前に誕生した人類は、やがて生まれ故郷のアフリカを飛び出し、ユーラシアへの旅を開始。180万年ほど前の最古級の原人化石と礫器の出土が、グルジアのドウマニシ遺跡から報じられているが、原人、旧人の足跡は、北欧など高緯度地帯を除くユーラシアの広い範囲に及ぶ。特に、南シベリアのアルタイ、中部シベリアなどに中期旧石器時代のムスティエ文化の洞穴・開地遺跡が多数残されており、旧人、すなわちネアンデルタールによる拡散、人口増加は疑いない。 近年の遺伝子研究の進展により、われわれの直接の祖先である新人、いわゆるホモ・サピエンスは、20万年ほど前にアフリカで誕生し、再び世界へ旅したことが説かれている。ミトコンドリアDNA分析から導き出された「イヴ仮説」である。その当初、ネアンデルタールとホモ・サピエンスとの遺伝的交雑はなかった、あるいはネアンデルタールはホモ・サピエンスによって絶滅に追い込まれたという不確かな説が支配的であったが、北回りルートのユーラシアでの考古学的証拠からは、両者の密接な交流、交雑は否定できない。 注目すべきは、現在より平均7〜8度も低かった最終氷期最盛期、ホモ・サピエンス、すなわち後期旧石器時代の人類が、マンモス動物群などの豊かな資源に支えられながら各種の道具や技術を高度化させ、多くの遺跡を残している事実である。コスチョンキ、メジリチ、マリタ遺跡など大規模な拠点集落があちこちに位置し、しかもとりわけ厳しい酷寒の極北にまで生活圏を拡大させている。北回りルートでの人類の拡散を物語る確かな証しである。 今から3〜1.5万年ほど前、北方ユーラシアに拡散したホモ・サピエンスが、日本列島やアメリカ大陸へも歩を進めている。マンモスの牙を巧みに利用する驚くべき技、細石刃を埋め込んだ植刃尖頭器(組み合わせ道具)など最新の道具を駆使する人々が、北海道に足を踏み入れたことは間違いない。なおこれまでのところ、更新世の人類化石と見られるものが琉球列島に偏在し、日本列島の後期旧石器文化の起源を南方に求める見解が有力とされる(小田静夫2011他)。ただし、それら「石器を使わぬ人」を起源とするには難がある。現状の考古学的証拠からはユーラシアでの人類拡散の北回りの波が日本列島に及んだものと予察する。 Ⅲ.黒曜石はるかな旅 人類は、道具を製作し、巧みに使いこなす類い稀な生物である。700万年間に及ぶ長き人類進化の歴史も、道具の発達に支えられてきたと言えよう。道具にふさわしい石材を求めて、人びとははるかな旅を続けてきた。北海道のオホーツク海に近い遠軽町・白滝赤石山(標高1147m)は、日本最大級の黒曜石産地で、置戸、十勝三股、赤井川と並ぶ北海道を代表する黒曜石産地である。黒曜石の化学組成分析法により出土石器の産地が同定され、産地から運び出された黒曜石の動き、先史時代人類の営みの一端が具体的に明らかにされている。 後期旧石器時代に、シベリアに住む集団が獲物や黒曜石を求めて白滝など北海道に進出し、集団間のやり取りを通して、白滝産黒曜石の原礫、あるいはその半加工品、完成品などが本州(遠くは山形県) やサハリンにまで運び込まれている事実は動かし難い。とりわけ、細石刃を特徴とする集団での長距離移動、遠隔地への搬出が著しい。最新の情報によると、白滝産黒曜石が中国東北部の吉林省にまで運ばれているという。 なお量こそ比較にならぬが、白滝産黒曜石の遠距離移動は、続縄文時代まで続く。 Ⅳ.縄文時代のおしゃれと死への祈り 1.3万年ほど前に始まり、1万年以上の長期にわたって農耕も持たずに存続した縄文文化は、世界にも稀有な文化と言えよう。氷河期を過ぎた日本列島の豊かな自然の恵みに支えられてのことであろうが、一方で、極東での新石器文化成立期に対比可能な縄文時代の草創期、あるいは縄文時代の「オホーツク文化」にも準えることが可能な早期の「石刃鏃文化」を好例として、縄文文化が独自の展開をしたとは言え、情報もモノも入らぬ閉ざされた世界では決してなく、ヒトとモノが行き交う開かれた社会であったことは注目されよう。 ところで、人類が人類である理由のひとつに、死者を埋葬する行為を上げることができよう。埋葬は、いつ始まったのか? 何故、わざわざ埋葬するのか? また、埋葬された人々には、当時の服装やおしゃれの姿を残す貴重な事例が知られている。縄文人の精神文化はどのようなものであったのか? ここでは、北海道にのみ知られる巨大で、計画的な竪穴式集団墓、そして他に類を見ない大量の漆製品に彩られた貴重な合葬墓の例を紹介しつつ、今から3000年ほど前の縄文人の他界観、優れた装飾の一端を垣間見る。 前者は、恵庭市柏木B遺跡で全容が初めて明らかにされた縄文時代後期後葉の竪穴式集団墓であるが、直径10〜20mほどの大きな円形の竪穴を構築し、その床面、ローム中の淡い黄褐色の床面に深さ1m以上の楕円形の土坑を掘り、順次、遺体を埋葬していった集団墓地である。納められた遺体にはベンガラが厚く撒布され、石棒や石斧、ヒスイ製玉類など被葬者にゆかりの装身具や副葬品が副えられた。中には、複数の遺体が同時に埋葬されたケースも含まれる。また遺体の埋納、掘削土を被覆、埋め戻し完了後に大きな柱状節理の角柱礫を土坑墓の前後に立てる例、あるいは大きな円礫を周辺に廻らす例、あるいは大量の円礫を土坑墓上に集積する例などがあり、墓標の社会的役割が注意される。竪穴式集団墓の構築当初から、所属集団別、階層別などによって人々の葬られる場所が想定されていたことを示唆する。きわめて計画的な共同墓地であったことが理解されよう。石棒、あるいは呪具を有する男性の族長、呪術師(シャーマン)がまとめる社会、緩やかな階層社会が浮かび上がってくる。千歳市キウスでは、竪穴径が40mを超える巨大なものも知られている。 一方、縄文時代後期末葉の恵庭市カリンバ遺跡では、櫛、腕輪、首飾り、頭飾り、帯などの漆製品、鮫歯、玉類など大量の装身具・副葬品に彩られた多数の遺体を埋葬した比類のない合葬墓4基(各々7人、4人、2人、5人の合葬)が、単葬墓多数とともに発見されている。大量、多種多様の漆製品はもちろん、色鮮やかな飾りに身を包まれた多くの人物がどのような関係にあったのか、またいかなる理由を持って同時に埋葬されたのか、断片的な人骨片から断定することは難しいが、墓の主人は、赤い漆塗り帯を装着した女性シャーマンの墓、一緒に眠る人物たちについては、推測たくましくすればそのシャーマンに身を任せた女性たちとみなすことができよう。シャーマニズムの精神世界、そして男性によってまとめられる社会がやがて女性によってまとめられる社会へと変動する様子を垣間見ることが許されよう。 Ⅴ.北に広がるヒトとモノの交流 縄文時代以降について、稲作文化から切り離された「停滞する北海道の文化」というイメージが固定化されてきた。しかし、続縄文時代以降も、狩猟、漁撈を主体とした自律的な経済・文化を繁栄させ、本州からの強い文化的影響、ヒトやモノの流動の余波を受けながらもその独自性を保持し続ける。一方で、北方の人々との交わりを通して独自の文化変容を遂げてきた。ここでの具体的な言及は省くが、続縄文文化や擦文文化、オホーツク文化などを特色づける各種の道具や住居構造、埋葬様式などにその変遷が表示されている。また、自家生産できなかった金属製品、貴重な奢侈品などに時々の距離関係がよく表れている。 Ⅵ.日本列島での人類進化史  近代化の黎明期、シーボルト父子による「アイヌ説」、E.モースによる「プレ・アイヌ説」、J.ミルンによる「コロポックル説」など欧米の研究者たちによって発議された「日本列島人」のルーツを探る議論は、坪井正五郎、小金井良精、鳥居龍蔵らに引き継がれ、華々しく繰り広げられたことはよく知られていよう。正確には、遺伝子研究が急速な進展を見せる今日なお、この課題に対する確かな回答は得られていない、というのが実情であろう。 (以降はPDFを参照ください)

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