日本における狩猟民俗の生成と変遷に関する歴史民俗学的研究

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Author
    • 永松, 敦 ナガマツ, アツシ
Bibliographic Information
Title

日本における狩猟民俗の生成と変遷に関する歴史民俗学的研究

Author

永松, 敦

Author(Another name)

ナガマツ, アツシ

University

総合研究大学院大学

Types of degree

博士 (学術)

Grant ID

甲第644号

Degree year

2003-03-24

Note and Description

博士論文

16世紀中葉に鉄砲がポルトガルから日本にもたらされてから、狩猟の様用は一変したはずである。戦国期から近世にかけて数多くの鉄砲が山間部に残り、江戸幕府は鉄砲の取締りを強化する。貞享4年(1687)年以後は、全国の鉄砲が各藩によって管理され、猟師は猟師札を丁賜され狩猟行為が認められる。こうした歴史的変化を見ながら、今なお、狩猟民俗・狩猟文化と言えば非稲作農耕民であり山の民の特殊な文化が、潜んでいるのではないかという期待感をもって見られるのは事実である。実際に現在刊行される『いくつもの日本』でも「狩猟と焼畑」という項目が設けられることそのものが、如実に今日の研究志向を表していると言ってよい。この2種の生業を特別に扱えば、稲作や平地の文化と対峙するもう一つの文化が見えてくるのではないかという期待感が込められている訳である。しかし、実際には山の民であっても農耕は営み、狩猟も焼畑も、小規模ながら水田も営んでいる。反対に平地の民でも水田と共に雑穀を栽培する畑作を営んでいるのであるから、程度の差はあれ、果たして山の民と平地の民の線引きがどこまで出来るのかはかなり疑問である。 ここでは、生業の違いによって文化を論じるのではなく、猟師そのものの姿を歴史的に探ろうとした。近世の猟師札が与えられ、権力の認める範囲内で狩猟をする人々の生活や行動を見ていけば、日本の猟師のあるがままの姿に出会えると考えたからである。 全国の近世の猟師に関する史料を一覧していくと、まず狩猟は農業の合間に行う生業であることがわかる。農業の余業として狩猟が行われることになる。こうした例が、西日本の各地で見られる。ところが、東北地方のマタギの場合は一種独特の猟師の世界をつくっている。これまで、民俗学によるマタギの研究は漂泊民・非稲作農耕民というレッテルを貼って見てきたが、盛岡藩などのマタギを詳細に近世史料から分析すると、決してそうではないことが認められた。マタギの多くは田畑を持ちながら農村に定着して、季節ごとか、あるいは鳥や獣の運上が課せられたときに狩猟を行っているのである。マタギ文書からはマタギの捕獲する動物は、熊やカモシカだけに限らず、鳥や魚までもが狩猟の対象となっていることが認められる。このことは、夏は鮭などの魚をとり、冬から春にかけては熊などの大型獣を追いかけていたものと想定することができる。彼らの目的は藩に対して熊の皮や胆などを供給することであり、藩からは見返りに山祝いと称して米や金銭などを貰っていた。そのため、マタギは他の農民よりも暮らしは豊かであったと考えられる。マタギは半農半猟のような生活を送っており、身分的には農民であったとすることができる。その殆どの者は高持百姓であったと言えよう。 東北諸藩、及び下野、常陸、越中などは動物の内臓や身体の一部分を動物生薬の原料として藩に提供することが強制されており、西日本のような農業の隙間に狩猟をするよう勧告するのとは性格がかなり異なっていると言わざるを得ない。むしろ、東日本では藩の財政の一助となるように猟師を支配しており、極めて従属性の高い猟師集団が形成されたと考えられる。 東日本では他の農民と異質な部分をもちながらも日頃は農業を営んでおり、彼らが特殊な世界観を有した集団であると認識されるようなになるのは、近世中期頃からの猟師の由来書の作成にある。此頃は猟師に限らず職人絵巻や山来記が多量に作成され各地に伝播されていくようになり、民衆が豊富な伝承文化を有するようになる。 猟師の由来書は東北マタギが磐司磐三郎(バンジバンサブロウ)という猟師を始祖とし、九州の場合は西山小猟師が始祖となる。彼らはいずれも山の神を助けた恩恵を受けて、山で殺生をしてもよいと許されることになる。つまり、猟師の由来を語ることは殺生の罪を滅罪することにつながるため、猟師たちは競って山東古を古写し各地に伝播していくことになる。この山東書の内容は極めて修験的で、猟師そのものが修験者ではないがと見られる要素もあったが文書の伝播経路を詳しく見ると、それは、修験者などの宗教者を出発点として幅広一般の住民に秘伝が広く周知され伝播したことが認められる。 むしろ、ここで重要な事は、猟師が始祖である猟師の名を語ることによって山の神とつながることであり、山の神信仰が中核に据えられたという事実である。この時期、山の神祭文が数多く作られ、山の神信仰が隆盛を見せる。山の世界は山の神を中心とする神々の世界を創り出し、山の神を信仰する事は山の神々・妖怪をも包摂した祭記へと発展を遂げることになる。 このため、狩猟の獲物の祈願、獲物の解体の作法、解体後の鎮魂儀礼などは全て山の神のもとで行われることになり、猟師があたがも山の神の司祭者としての性格を帯びるようになる。近世中期以後、猟師たちは山の神を中心とする一種独特の職業集団をつくりあげていったのである。猟師以外の人々は独特の世界観を有する猟師を特殊な目で見、こうした認識を抱くようになった。この特殊性が後々の民俗学者へも影響を与えて農民である猟師たちを狩猟民・漂泊民という用語でもって語り継いできたのである。

総研大甲第644号

431access
Codes
  • NII Article ID (NAID)
    500000246890
  • NII Author ID (NRID)
    • 8000000247545
  • Text Lang
    • jpn
  • NDLBibID
    • 000004365377
  • Source
    • Institutional Repository
    • NDL ONLINE
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