The nature and development of chestnut (Castanea crenata) and horse chestnut (Aesculus turbinata) culture in Japan The Nature and Development of Chestnut (Castanea crenata) and Horse Chestnut (Aesculus turbinata) Culture in Japan

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著者

    • 北川, 淳子 キタガワ, ジュンコ

書誌事項

タイトル

The nature and development of chestnut (Castanea crenata) and horse chestnut (Aesculus turbinata) culture in Japan

タイトル別名

The Nature and Development of Chestnut (Castanea crenata) and Horse Chestnut (Aesculus turbinata) Culture in Japan

著者名

北川, 淳子

著者別名

キタガワ, ジュンコ

学位授与大学

総合研究大学院大学

取得学位

博士 (学術)

学位授与番号

乙第132号

学位授与年月日

2004-03-24

注記・抄録

博士論文

縄文時代、堅果類の採集は食糧供給を安定させるための重要な活動であった。堅果類の中でも、クリとトチの実は大量に消費されてきたことは、遺跡から出土する遺物の量から明らかである。この2種の堅果類は、花粉分析やDNA分析、大型植物遺体の計測の結果などから、半栽培植物と考えられている。また、堅果類は秋にのみ収穫でき、その利用は、採集・貯蔵・利用という計画性が必要で、この計画的な活動は農耕が受け入れられる基盤となったことが指摘されている。半栽培は野生堅果類の採集よりも自然への関与が更に進んだ段階で、農耕との中間段階と考えられる。半栽培も農耕が広く普及する前段階と位置地付けることができる可能性がある。 半栽培文化は縄文時代に始まり、昭和初期まで続いていたと考えられる。半栽培は農耕が発展した後も長期間行われた社会背景や、それを行い続ける必要がなぜあったか、日本の文化深層を探るうえで重要である。本研究では、花粉分析の手法を利用して、クリやトチノキの半栽培文化と環境との関係について詳細な検討を行った。 花粉分析の結果、日本でのクリの半栽培は縄文早期に始まり、トチノキは中期に始まったことが明らかとなった。中期にトチノキを半栽培するほどトチの実を利用していたことは、その時期までに日本での灰汁抜き技術の発達と浸透が十分であったとする見解と整合する。縄文時代、食糧源となるクリやトチノキの半栽培は、東日本で大規模に行われていた。そして、その利用には気候や周辺環境が大きく影響した。青森では、クリが生育できる北限に近いため、気温変化がクリ林の盛衰に大きく影響し、クリは温暖期に利用され、寒さに強いトチノキは寒冷期に利用された。縄文人がクリやトチノキの植物学的な特性を十分理解していたと推定できる。しかし、このパターンは年平均気温の高い地域ではそれほど顕著に現れない。三内丸山遺跡で縄文時代後期の寒冷期にクリ花粉が減少し、クリの半栽培が行われなくなった時代に、年平均気温が1.2℃高い里浜遺跡では、クリの半栽培が行われていた。しかし、縄文時代晩期の寒冷期に里浜遺跡でもトチノキの半栽培が行われている。これは、気温変動が半栽培に影響し、縄文人は気候にあった植物の種類を選んでいることを示している。そのため、温暖な西日本では、トチノキの半栽培が行われなかった可能性がある。また、水環境や集落の場所などが半栽培に影響していた。三内丸山遺跡ではトチノキの半栽培は確認されなかった。これは多量の淡水の有無に関係しているかもしれない。里浜遺跡では、温暖期にクリの半栽培のみられなくなる時期があるが、クリ林が水に浸って枯れてしまった時期のある可能性が考えられる。また、クリ林は生活の場に付随していて、常に手入れのできる場所にあった。このことは里浜遺跡で生活の場の移動と共にクリ花粉の減少が見られた時期が存在することから予想でき、そして、三内丸山遺跡とクリ林の距離の推定からも明らかである。 最も古い農耕の証拠が東北の遺跡から発見されていて、半栽培文化の浸透がそれに先行していることから、半栽培という採集経済と農耕経済の中間段階は農耕を受け入れる前駆段階である仮説が立てられる。クリやトチの実の利用は農耕が大陸より伝わった後も行われた。中部山岳地帯や東北では、不足した食糧を補うために利用されてきた。しかし、半栽培は常に行われていたわけでなく、例えば、食糧供給が不足する時代に限って行われた。クリの半栽培活動は伝承によると近世まであった可能性があるが、再検討する必要がある。特に小樽のクリ林は近年の保護活動によって人為的に形成されたことが明らかになった。刈込池の花粉分析の結果によると、トチノキの歴史時代の半栽培は、寒冷であった小氷期にのみ行われ、その後、食糧供給の発達とともに廃れていく。また、北海道でもトチノキの半栽培が小氷期に認められた。しかし、これは和人が北海道に入植した以降であり、それ以前では見られない。以上から次の結論が導かれる。クリやトチノキの半栽培は、縄文時代、食糧供給を安定させるために集落周辺で行われた。植物の結実は年平均気温の低い地域では気候の変動に大きく左右される。農耕による食糧供給が十分でなかった東北地方では、食糧の安定供給という意味で半栽培文化が広く浸透した。しかし、半栽培文化は和人の文化であり、北海道のアイヌ人の間では広がらなかった。本州では、半栽培文化が農耕を受け入れる基盤となり、農耕を受け入れた後も、日本の文化の1つとして長期間残った。しかし、クリの生育環境が温暖期に適しているため、農耕を受け入れた後には、農業生産高の高い時期と重なり、クリの半栽培の必要性は失われた。トチノキについては農業生産高の低下する寒冷期に適しているため、寒冷期にのみ半栽培が行われるという形式をとったと考えられる。近年、農業生産高の向上、物流の発達に伴い、食糧は安定供給されトチノキの半栽培のような活動は不要となり、日本ではこれらの半栽培文化は消滅したようである。

総研大乙第132号

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各種コード

  • NII論文ID(NAID)
    500000295220
  • NII著者ID(NRID)
    • 8000000296020
  • 本文言語コード
    • eng
  • NDL書誌ID
    • 000007718491
  • データ提供元
    • 機関リポジトリ
    • NDL ONLINE
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