近代奉天市の都市発展と市民生活(1905-1945) 近代奉天市の都市発展と市民生活(1905-1945)

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著者

    • 殷, 志強 イン, シキョウ

書誌事項

タイトル

近代奉天市の都市発展と市民生活(1905-1945)

タイトル別名

近代奉天市の都市発展と市民生活(1905-1945)

著者名

殷, 志強

著者別名

イン, シキョウ

学位授与大学

新潟大学

取得学位

博士(文学)

学位授与番号

甲第3638号

学位授与年月日

2012-03-23

注記・抄録

博士論文

本論文の研究課題は、奉天の近代植民地的な都市としての発展と社会変容、及びそれに伴う市民生活の変化である。まず奉天が内外の刺激を受けてどのように前近代都市から近代都市へと変身したのかを明らかにしたい。また、奉天が辿った近代化の道をめぐる曲折、植民的な勢力の拡張と国権回収のせめぎ合いの展開過程を検討する。加えて、公共交通や公衆衛生など具体的な施設整備を取り上げ、都市の発展によって奉天市民の生活基盤がどのように変化したのかを考察する。さらに、軍閥混戦から日中戦争まで長い戦争が続く中での奉天市民の生活について解明することを試みたい。本論文は以上の三編七章の構成をもって、奉天の都市発展による社会の変容及び市民生活の状況を考察する。これらの考察を通して、奉天の都市近代化の過程とそれぞれの問題をめぐる時代的特徴を明らかにする。第一章では、奉天地方政府、大倉組、駐奉天日本総領事館、日本外務省の間の公文、電報、協議資料を用いて、従来ほとんど研究されていなかった奉天市内唯一の公共交通機関であった中日合弁奉天馬車鉄道会社の成立、経営状況、解散問題を検討するとともに、この馬鉄会社をめぐる中日間の紛争を考察した。このような交渉過程の考察を通じて、満洲経営の末端にある民間企業(大倉組)は、主として奉天総領事館を通し、さまざまな利益を中国側に求めた仕組みを明らかにした。会社の成立にせよ、解散にせよ、すべての行為は中国側の法律に基づいて行っていることも明らかにした。中国側の国権回収派の反発を受けて、大倉組は独占的な敷設を断念し、最終的に条件を付けて、馬鉄の解散を承諾した。この時期においては、まだ自覚的な都市建設の発想がなかったが、日中合弁の形で作られた馬鉄会社のようなものが無意識的に奉天の都市近代化を前に進めた。要するに、この時期は奉天の前近代から近代への過度期と言える。第二章では、市民生活や市民の健康に最も重要な衛生施設である上水道の整備を検討した。公共衛生意識が高かった中国側の「文治派」は都市衛生を市政の重要な課題として位置付けた。1923年、奉天市政公所は水道計画を作成し、市内衛生施設の改善のための重要な一歩を踏み出した。しかし張作霖を中心とする軍閥の上層は、軍事を重んじ、民生を軽んじる考えをもっていた。大量の資財を戦争のため無駄に使った。資金や経験の不足、行政の混乱のため、最終的に市政公所の水道計画は実現されなかった。ただこのように自らの生活地域の衛生環境の改善を目指すという中国人の意識の芽生えは、伝統都市の近代化への発展に際して極めて重要な変化であったと考える。

第三章では、奉天市政公所の電車計画の立案過程と実施、それをめぐる中日間の紛争などを検討した。奉天の第一期電車計画の実施は現地有力者の自力による市政建設を進めた重要な事例である。電車用地の買収問題をめぐっては、中国現地住民の間に反対運動もあったが、市政公所は計画の縮小や家が取り壊された住民に対し適切に対処し配慮することなどにより、電車敷設計画を進めた。一方、中国と日本の間では、馬鉄廃止後の善後問題として電車の共同経営交渉も断続的に行なわれた。最終的には、日本側の抗議や脅迫に抵抗して単独で路線敷設を完成させた。第四章では1920年代の奉天票暴落による市民生活及び社会変容を検討した。1920年代後半から深刻化した奉天票暴落問題により金融秩序が乱れ、物価が騰貴し、市民生活は一層苦しくなった。そのような状況に対して、まず、奉天政府当局はどのような対策を取ったのかについて詳細に分析した。奉天票暴落の根本的な原因は連年の戦争により厖大に軍費を費やし、地方財政を無駄使いしたことにあった。しかし、満鉄付属地の治外法権のため、一部の投機者はこの中国の法律の「真空地帯」を利用して勝手に金融の投機を行った。これは中国側の投機に対する取り締まり策が十分に効果を挙げられなかった要因であると考えられる。次に、日中双方の奉天票暴落をめぐる見解の違いや対立について検討した。張作霖は日本の満蒙利益の代理人であるが、完全に日本の意志に左右されていた訳ではなかった。最終的に関東軍に爆殺された経済的な要因はむしろ奉天票の問題にあると考えられる。さらに、奉天票の暴落は市民生活に悪影響を与えたにもかかわらず、金融の混乱のため、多くの商店が破産し、社会治安も悪化した。経済混乱の波紋は奉天市内にとどまらず、周辺の地域にも広がり、東北社会地域の変容をもたらした。第五章では、満洲国初期における奉天都市計画の立案過程、満洲国工業の中心地とされた奉天における工業の発展政策、鉄西工業区の成長を考察した。「満洲国」の成立に伴い、奉天は初めて全般的な計画に基づいて都市建設を図ろうとした。しかし、大奉天都市計画は関東軍の主導によって作られたものであるので、軍事基地や重工業の中心としての発展が強調されたことはその計画の重要な特徴である。満洲という日本の対外作戦の拠点を建設するために、日本の満洲経営は「国防経済」を第一義として認識した。従って、工業中心地に指定された奉天は東北の資源を開発して軍需物資の生産を確保するという日本側の長期的な計画の内に置かれた。その具体的な措置は鉄西工業区の整備であった。

第六章では、関東軍の主宰により作られた大奉天都市計画の実行や満洲国期における瀋陽の社会変容を取り上げる。とくにその時期の奉天市政発展の成果や問題を総括的に考察した。まず奉天の特別市制問題や治外法権の撤廃問題など奉天市の発展に関する重要な問題を考察し、日本と満洲国側の微妙な相違点を明らかにした。満洲国の成立により、奉天市の発展は日本の意志に従属せざるを得なかったが、傀儡の立場にいた閻市長を中心とする一部の満洲国官吏は一定の自主権を求め、日本と協力しながら奉天の発展をはかろうとした。そのような傀儡政権の中に一定程度の自立を求めることは満洲国期の奉天都市発展のもう一つの重要な特徴である。また、満洲国期における大奉天都市計画の施行の実態を考察し、道路の敷設、奉天市内交通の整備、水道の進展の状況を検討した。これらの考察を通してさらに奉天の社会変容を明らかにした。第七章では、これまでほとんど利用されていなかった『日本関東憲兵隊報告集』といった資料を分析しながら、民衆の日常生活の角度から都市の発展を検討する。満洲国期における奉天民衆の生活状況がどのように変化したかを考察し、とりわけ関東憲兵隊が押収した通信に隠された日中戦争期における奉天市民生活の実態を解明した。戦争の拡大により、多くの物資が日本に徴収され、奉天ではますます物資不足の状況が深刻化した。米や小麦粉の配給はなくなるのみならず、高粱、粟など代用食糧の配給も徐々に少なくなった。市民はやむを得ず闇市場の高価な食糧に依存した。しかも、餓死を待つという最悪の状況に陥った市民も数少なく存在した。市民の困窮した生活と異なり、一部の日本軍人は贅沢な生活をしていたことも資料から読みとれる。とにかく、本論文は近代奉天市の都市発展と市民生活を三つの段階に分けて、それぞれの時期の特徴を明らかにしつつ、日露戦争から終戦までの奉天市の発展図を描いた。

新潟大学大学院現代社会文化研究科

平成24年3月23日

新大院博(文)甲第44号

付録図版は省略

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各種コード

  • NII論文ID(NAID)
    500000568405
  • NII著者ID(NRID)
    • 8000000570673
  • 本文言語コード
    • jpn
  • NDL書誌ID
    • 024302667
  • データ提供元
    • 機関リポジトリ
    • NDL ONLINE
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