太宰作品の先鋒 ―〈女性語り〉に焦点をあてて―
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著者
書誌事項
- タイトル
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太宰作品の先鋒 ―〈女性語り〉に焦点をあてて―
- 著者名
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山田, 佳奈
- 学位授与大学
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武庫川女子大学
- 取得学位
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博士(文学)
- 学位授与番号
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甲第130号
- 学位授与年月日
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2016-03-20
注記・抄録
収集根拠 : 博士論文(自動収集)
資料形態 : テキストデータ
コレクション : 国立国会図書館デジタルコレクション > デジタル化資料 > 博士論文
本博士論文は、「太宰作品の先鋒―女性語りに焦点をあてて―」と題して、太宰の〈女性語り〉を分析し、その本質を解明したものである。 〈女性語り〉とは、女性が一人称で語る形式を持つ諸作品で、全部で十六作確認できる(注1)。その意味について従来研究が重ねられてきた。しかしそこで前提とされたのは、感情的で感覚的な女性像であった。それは、当時の社会通念を適応させた理解であり、〈太宰が女性語りで描いた女性〉の本質は明らかにされないままである。本論は、太宰が描いた〈女性語り〉から立ち上がる女性像そのものに着目し、作家太宰が意識を超えたところで形成した女性像を明らかにすることを試みた。 構成は、次の通りである。まず「序論」で、先行研究の様相と問題点と本論の見通しを述べる。次に、「本論」「[一]〈女性語り〉以前」、「[二]〈女性語り〉へのアプローチ」で、詳細な作品読解を行う。そのうえで、「結論 〈女性語り〉とは ―二十一世紀視点で太宰を読む―」を述べた。以下、「本論」と「結論」の要旨である。 まず「本論」、「[一]〈女性語り〉以前」では「魚服記」を扱った。「魚服記」は前期の太宰を代表する作品であり、スワという少女をめぐって話が展開する。「魚服記」について太宰は、「魚になつて日頃私を辱しめ虐げてゐる人たちを笑つてやらう」という「作者の意図」を、「言ひ張」れなかったことに「深く後悔してゐ」る(注2)。これを、少女を困難から救えなかった「後悔」だと捉えた論者は、本作品を〈女性語り〉の原点だと考えた。以上の理由から、〈女性語り〉以前として「魚服記」を扱う。 次に[二]では、「〈女性語り〉へのアプローチ」と題して、〈女性語り〉を代表する七作品について論を重ねた。各論は作品論として独立しているが、モチーフごとに「Ⅰ 家族と恋愛」「Ⅱ 夫婦」「Ⅲ 子育て」に分類した。その要点を作品ごとに示す。 Ⅰ 家族と恋愛 1、「燈籠」 「燈籠」は、「ことし二十四」歳、「まずしい下駄屋」の一人娘のさき子が語る話である。 先行研究では、家族愛を主題とする説が多くみられるが、そこでは両親に対するさき子の不満が無視されていた。本論ではこの点を問題視し、作品を読み解いた。 その結果、さき子の語りは〈世間〉〈恋人〉〈両親〉に分類でき、いずれの分類においても、両親に対する不満が確認できた。しかし、語りの中でこの思いが変化し、最終的にさき子は両親と自身の半生を受け入れることができた。本論では、語ることで自身の困難を受け入れたさき子の姿勢に、「燈籠」の価値を見出した。 2、「葉桜と魔笛」 「葉桜と魔笛」は、「老夫人」が「二十」歳の頃の「私」を回想して語る話である。 従来、ロマンチシズムに基づいて語られてきたこの作品を、本論では次のように読み替えた。 語りの最大の謎は、揺れる「老夫人」にある。この謎を解明すべく語りを分析すると、「私」は、家族のために生きる一方で、自身の恋愛がおろそかになることに不満を抱き、動揺していたことがわかった。この混乱の中で「私」は妹の死を受け入れたが、「老夫人」になって疑問を抱くようになり、その疑問が〈宿痾〉つまり持病のようになった。しかし、「老夫人」は逃げることなく妹や父の死に向き合い、現実を乗り越えようとした。その結果、家族の死を受け入れる鍵を手にした一方で、過去の自分を許せるかという問いが生れ、「老夫人」は揺れ続けていることを論じた。また、「葉桜と魔笛」の主題は、死を前にしても〈宿痾〉に向き合いつづける「老夫人」の〈強さ〉にあると指摘した。 Ⅱ 夫婦 3、「皮膚と心」 「皮膚と心」は、「二十八」歳で新婚の「私」が語る話である。 先行研究では、「私」が自身の問題を掘り下げている点が無視されており、本論ではこの点を重視して論じた。 「私」は、「吹出物」の根本的な原因を結婚生活に求め、その原因追究は、他者を意味する「皮膚」レベルから、自身の「心」へと向かう。この過程を通して、「私」は自らの自信のなさが根本原因だったことに気付き、語りの最後でこうした自分を恥じた。つまり、〈自己変革〉を果たしたのである。 また、語りの面についても解明、「私」の語りに共通の区切りが確認できることを指摘した。ここから、「私」がそのつど感情を吐露したことが明らかになった。 4、「きりぎりす」 「きりぎりす」は、「二十四」歳の妻である「私」が、画家である夫との結婚生活を語る話である。 先行研究では、夫を通して妻の語りが解釈されてきたが、本論では語りが〈妻自身の語り〉であったことを論証した。 妻の語りの内容は、①〈夫とのなれそめから結婚〉、②〈幸せな結婚生活〉、③〈夫の成功で生じた夫婦の亀裂〉、④〈別れの決意〉の四つに分類することができる。そこで語られたことは、夫への冷めゆく愛情だった。では、何のために妻は〈夫との別れの物語〉を編んだのか。本論ではそれを、〈成長〉を刻むためだとした。末尾の「こおろぎ」と「きりぎりす」の転位も、この文脈のもとで読まれねばならない。 また、語りの面についても触れ、妻の語りの内容が先に示した四つに区切れることから、この区切りごとに妻が気持ちを吐露したことを明らかにした。 Ⅲ 子育て 5、「ヴィヨンの妻」 「ヴィヨンの妻」は、「二十六」歳の「私」が語る話である。 先行研究では、作品は常に夫と妻の関係から論じられてきた。本論ではこの点を問題視し、「坊や」を中心に据えて読解した。また、太宰の「桜桃」を補助線とした点にも、本論の特徴がある。 その結果明らかになったことは、生活が困窮する中、障害を持つ子を必死に育て上げようとする「私」の姿だった。夫である大谷はこの困難から逃避するが、妻は夫を立てることで家庭を維持し、子供を守ろうとした。この方法が変化するのは、「私」が椿屋で働くようになってからだ。「私」は社会参画を果たし、「私たちは」〈坊やのために〉「生きていさえすれば」良いと、夫に意見するまでに〈成長〉する。以上のように、「私」は社会参画することによって夫からの〈自立〉を果たし、子供を育て上げる自信を得たと述べた 6、「斜陽」 「斜陽」は、「二十九」歳のかず子が語る話である。 先行研究では〈かず子の弱さ〉が軽視されており、本論ではこの点を問題視して読解を進めた。 その結果、かず子は多くの困難を抱え、苦しみを言葉にしていたことが明らかになった。こうした状況での希望こそ、上原への恋心だった。しかし、理想と現実では違いも多く、最終的にかず子は、上原への怒りを侮蔑の思いに変えて、不倫の末に生れた私生児を育て上げようと決意する。以上のように、かず子が「斜陽」の環境を自ら「太陽」にしようと努め、〈自立〉を果たそうとしたことを述べた。 また、語りの面からも分析を行った。その結果、困難な現状を認知し、「道徳革命」の道を決意するまでのかず子の心境が、そのつど語られていることを明らかにした。 7、「おさん」 「おさん」は、近松門左衛門の『心中天の網島』を種本としており、夫の浮気に悩む妻の話である。 先行研究では、妻と夫を両極端な人物として捉えていたが、本論では『心中天の網島』との比較を通して、妻も夫も自己完結型の人間であると述べた。さらに、主題は〈自己完結で本音を隠す馬鹿々々しさ〉にあるとした。 語りについても指摘し、日時をもとに、五つの区切りを見出した。そのうえで、四つ目と五つ目の区切りの間に空白の時間が存在することを述べ、そこで起きた出来事が「諏訪湖心中」だとした。これにより、妻の態度の豹変に説明がついた。 以上の作品分析を経て、「〈女性語り〉とは ―二十一世紀視点で太宰を読む―」で「結論」を述べた。まずモチーフだが、それは〈家族〉〈恋愛〉〈夫婦〉〈子育て〉にあり、精神的にも経済的にも〈自立〉しようとする女性が描かれていた。語り手の女性たちはまさしく〈成長〉を果たしたのである。 次に、語りである。そこでは、自らの気持ちをそのつど語る形式が用いられていた。本論では、これを〈伴走説〉と名付けた。それは、自ら悩み、考え抜いて答えを導く過程こそを、太宰が重視していた表れである。また、語り手の〈成長〉をくっきりと見せる意図があったと考えられる。 以上のように、〈太宰が女性語りで描いた女性〉は、困難に真正面から立ち向かい、語ることで冷静に自らの道を見定めて、〈成長〉を果たした女性であった。時代は、ようやく太宰に追いつこうとしている。二十一世紀は〈女性の時代〉だ。今後の社会の発展には、女性の力が不可欠である。しかし、出産をはじめとした女性特有のライフイベントや、未だ根強い女性差別によって、女性の〈自立〉は容易くない。〈女性語り〉の語り手たちは、壁に当たりながらも自ら考え、〈自立〉しようとした。〈女性語り〉は、こうした女性たちの話として読み変えることで、現代的意義を持つ。〈自立〉していく女性をまぶしげに見る太宰の感性は、結果的に半世紀先の世の中に通用したのである。また、この論証を通して、〈女性語り〉は二十一世紀の今こそ、太宰作品の先鋒として輝きを増していると結論づけた。
2015