秀吉は「家康政権」を遺言していた : 朝鮮出兵から関ケ原の合戦までの驚愕の真相
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秀吉は「家康政権」を遺言していた : 朝鮮出兵から関ケ原の合戦までの驚愕の真相
河出書房新社, 2019.11
- タイトル別名
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秀吉は家康政権を遺言していた
- タイトル読み
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ヒデヨシ ワ イエヤス セイケン オ ユイゴン シテ イタ : チョウセン シュッペイ カラ セキガハラ ノ カッセン マデ ノ キョウガク ノ シンソウ
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注記
本書で扱うおもな出来事の年表: p10
おもな参考文献: p221-223
内容説明・目次
内容説明
「慶長の役の最中、秀吉が病死したため日本は朝鮮から撤退。その後、徳川家康と石田三成の対立が深まり、関ヶ原の合戦がおこった」…学校で習った歴史は本当なのか?じつは、朝鮮からの撤退は秀吉が生前から検討し、遺言では、家康を後継者に指名、家康と三成の対立もなかった。であるなら、関ヶ原の合戦の対立の真の構図とは?目からウロコの歴史の真相が浮かび上がる!
目次
- 「朝鮮出兵」で露呈した小西行長と加藤清正の諍い のちの関ヶ原へと続く、対立構造の萌芽を探る—第一部 天正二〇年四月〜慶長三年一月(秀吉による朝鮮出兵がはじまる;文禄・慶長の役は、明との戦争だった ほか)
- 戦争の最中、「家康政権」を遺言して逝った秀吉 最期まで精力的に指示を出し続けた秀吉の構想とは—第二部 慶長三年三月〜八月(豊臣秀吉は認知症や錯乱状態になったのか;豊臣秀吉は、なぜ徳川家康をたずねたのか ほか)
- 「朝鮮退き口」を指揮し戦勝を演出した家康 秀吉の没後、家康はいかに権力基盤を築いたか—第三部 慶長三年九月〜四年一月(秀吉が遺言した政権運営のガイドライン;最初は合議で出発した家康体制 ほか)
- 難航する「日明和談」と関ヶ原への道 内憂外患の危機を、家康はいかに脱しようとしたか—第四部 慶長四年二月〜一五年(捕虜の姜〓が残した詩とは;姜〓は明の捕虜とも会っていた ほか)
「BOOKデータベース」 より