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  • 石見部における2012年~2016年のばいかご漁業の調査結果

    向井, 哲也, 道根, 淳, 古谷, 尚大 島根県水産技術センター研究報告 (11) 47-50, 2018-03

    ...調査期間中の1隻あたりのエッチュウバイ漁獲量は横ばいであったが,CPUEは増加しており2014~2016年では過去最高水準となった。ただし本漁業によるエッチュウバイに対する推定漁獲率は40%以上とかなり高く,今後も資源状況に見合った漁獲管理が必要と考えられた。...

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  • アズキ貝とシロバイのゆで加熱に伴う物性の比較

    岩田 惠美子, 後藤 昌弘 一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集 69 (0), 152-, 2017

    ...シロバイはエッチュウバイ(<i>Buccinum striatissimum</i>)などエゾバイ属の総称で小さいものはコバイとよばれている。貝類(バイ)の調理性についての研究が少ないため、本研究ではアズキ貝を食べやすい硬さに調理するための加熱条件を検討することを目的とし、アズキ貝とシロバイ(コバイ)を用いて調査した。...

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  • 斯波宗家の去就 : 越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ

    熊谷, 隆之 富山史壇 181 1-9, 2016

    斯波宗家は、足利泰氏の庶長子たる足利(斯波)家氏の嫡男で、斯波氏の第二代である。父家氏は『吾妻鏡』に将軍の近習として散見するものの、同書の記事は、文永三年(―二六六)までしか残らず、鎌倉後期の斯波氏については、茫漠たる状況にある。 そんななか、本稿で着目するのは、越中国岡成名(高岡市街地の北西、小矢部川の右岸、旧西条村の一帯)である。鎌倉末期の岡成名に関する関東裁許状二通には、斯波宗家とその嫡子…

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  • 泊の御宿,本陣について

    増田 晴夫 日本建築学会計画系論文集 79 (698), 991-996, 2014

    This paper considers, through the case studies of oyado and honjin, early-modern boarding facilities in the districts of Tomari, the nature of Edo Period lodging facilities in Ettyu wherein daimyo …

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  • ばいかご漁業におけるエッチュウバイ選別機の開発

    向井, 哲也 島根県水産技術センター研究報告 (3) 41-46, 2011-03

    ...ばいかご漁業においてエッチュウバイを銘柄別に選別する作業の迅速化を図るために選別機の開発を試みた。開発した選別機は,回転するローラーを並べてふるいとし,ローラーの径を変えることによりエッチュウバイを5段階のサイズに選別することができた。...

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  • 幕府撰日本図に見る近世越中の地域像

    深井 甚三 富山大学人間発達科学部紀要 1 (1), 221-233, 2006-12

    近世には様々な日本図が作成された。その中でいうまでもなく最重要なのは,幕府が作成した日本図である。豊臣政権の後を引き継いだ徳川政権は,全国土を掌握した政権としての正当性を示すためにも,全国60余州の国絵図を大名らに作成,提出させ,これを基に日本図を作成した。慶長,寛永,正保,元禄,そして天保と各時期に国絵図が作成されたが,これらの国絵図から寛永,正保,元禄,享保の各日本図が作成されたことが判明し…

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  • 藤波の影 : 大伴家持の越中秀吟

    菊池 威雄 日本文学 51 (9), 1-9, 2002

    景が美意識によって捉えなおされる契機として交友の世界がある。家持の越中秀吟の一つである(四一九九)を中心に、藤が和歌に定着し発展する様を検証した。家持の<藤>は、予祝的な景表現から脱し、越中での交友の世界での美の追求の果てに捉えられた景であった。(四一九九)の美の構図は類句を立体的に組み上げつつ創造されたものであるが、とりわけ藤と水のモチーフは、布勢の湖での交友の世界で成立し、平安以降の和歌に継…

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  • 商人の遺伝子:第六回 越中商人:作家/加来耕三挿画/有福辰也

    加来 耕三 日経ベンチャー (192) 108-111, 2000-09

    盃を包む人さし指が能登半島であり、そのつけねから親指にいたるまでが富山平野である。盃はそのまま富山湾となろう。この親指と人差し指のつけねあたりに、呉羽くれは山という低くて細ながい丘陵が隆起していると連想すれば、ここが東西文化圏の分れ目となった。

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  • 大伴家持の「異文化」 : 越中の歌日記から(<特集><異文化>と<日本文学>)

    猪股 ときわ 日本文学 48 (1), 1-12, 1999

    『万葉集』巻一七以降の大伴家持歌は、年月日付を追って書き記されており、「歌日記」とも呼ばれている。越中に赴任したことと、「歌日記」的な記述とはどのように関連したのか。日付とともに歌作が並べられることは、家持にとってどのような意味があったのか。巻一九冒頭歌群の場合、天平勝宝二(七五〇)年一日、二日、三日朝と時を追って記された歌作は、三月三日上巳節に向き合い、その当日をしかるべく実現するための歌実践…

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  • 吉益東洞『建珠録』に登場する越中の僧達

    寺澤 捷年, 土佐 寛順, 伊藤 隆, 三潴 忠道, 嶋田 豊 日本東洋医学雑誌 46 (5), 735-746, 1996

    The ‘Kenjuroku’ is a book of 54 case reports written by Yoshimasu Todo in 1763. The cases studies of four Buddhist monks (Gyokutan, Soboku, the director of Seikoji temple, and the son of the …

    DOI Web Site 医中誌 被引用文献1件 参考文献15件

  • 新川木綿と越中高岡綿問屋 : 福岡屋清右衛門家の繰綿取引き

    谷本 雅之 富山大学紀要.富大経済論集 37 (1), 107-139, 1991-07

    19世紀初頭から1880年代にかけ,新川地方(現在は富山県東部,廃藩置県以前は加賀藩領)は,全国でも有数の白木綿生産地帯であった。その製品は「新川木綿」と称され地域外に広範な販路を有していたが,非綿作地帯である新川地方は,原料繰綿の供給も地域外からの移入に依存していた。加賀藩領において,この繰綿流通の集散地となっていたのが越中射水郡下の商都、高岡である。筆者は,19世紀の新川木綿の流通・生産構造…

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  • 近世越中における無家村の地域論的考察

    神前 進一 人文地理 34 (2), 123-145, 1982

    It is recognized that the smallest spatial unit of Japanese rural society is the <i>oaza</i>, which roughly coincides with the areal extent of the <i>hanseison</i>, an administrative unit in rual …

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