検索結果を絞り込む

データ種別

本文・本体へのリンク

検索結果 5 件

  • 1 / 1

  • クラクフの歴史と文化遺産

    飯島 康夫 聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University 29 (2), 15-30, 2017-03

    ...ドイツ騎士修道会,モスクワ公国,時代を経て,プロイセン,ロシア,オーストリアによるポーランド分割と国家の消滅,更には近現代ではナチズムと共産主義による弾圧と圧迫に苦しめられてきた。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • ヴェルサイユ体制下のイギリス勢力均衡政策とポーランド

    松川, 克彦 京都産業大学論集. 社会科学系列 25 119-143, 2008-03

    大国による単独支配ではなく、複数国家間の勢力均衡あるいは国際協調を好むのはヨーロッパの伝統であった。しかしながら均衡を望ましいとするこうした傾向が、20世紀のヨーロッパにわずか20年の間隔で二個の世界戦争を発生させた。本稿は「均衡」追及の問題性の一例として、第一次大戦終了時におけるイギリスの政策と、それが現実にいかなる問題を惹き起こすことになったかということについて考察する。 …

    機関リポジトリ HANDLE Web Site

  • 1897年センサスにみる19世紀末のベラルーシ・リトアニア地域のユダヤ人の経済状況

    中谷,昌弘 Japanese Slavic and East European studies 24 45-64, 2004-03-22

    ...そしてこの特徴から、18世紀末にポーランド分割によってロシア帝国に併合されたこの地域では、ポーランド王国時代に形成されたユダヤ人と非ユダヤ人とのあいだの「社会経済的共生関係」が少なくとも19世紀末まで保たれていたと推測することができる。今後、本稿の分析をもとに、帝政ロシアのユダヤ人問題、特にポグロムの問題についてさらに深く追究していく。...

    NDLデジタルコレクション

  • 亡命ポーランド人とオスマン帝国 : 19世紀中葉

    早坂 真理 日本中東学会年報 2 (0), 166-186, 1987

    ...そしてポーランド分割に臨んではヨーロッパ大陸において分割反対を唱えたのはオスマン帝国が唯一であったし,また分割反対を叫ぶバール連盟の兵士たちやコシチューシコの反乱の参加者たちを領内に温かく迎え入れたのもオスマン帝国であった。それは,ロシアの南下を防ぐ防壁としてポーランドが有益であったからにほかならない。...

    DOI

  • 1 / 1
ページトップへ