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検索結果 131 件

  • 1 / 1

  • 海保青陵の経済思想に関する若干の考察

    日本情報ディレクトリ学会誌 22 (1), 18-27, 2024-03-31

    ...江戸時代には, 新井白石, 荻生徂徠, 熊沢蕃山等を始めとして, 多数の儒者と経世家が輩出して, 実に多士済々であった。本稿の主人公もその一人である。しかし, 軽視されてきた。本稿執筆の目的は, 海保青陵の経済思想を分析考察し, 後世経済思想への貢献に関して, 若干の考察を試みる事にある。...

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  • 韓国史における人格神(天)と良心宣言― 儒教と東学・天道教を中心として―

    邊 英浩 都留文科大学研究紀要 (97) 35-45, 2023-03-01

    【要旨】 韓国では「良心宣言」がしばしばみられる。これは日本のみならず、東アジア全域の中で 現代韓国にのみ見られる現象のようである。これは神が人間の中で働きそこから生じるも のであるが、キリスト教の影響と理解されることが多い。しかし良心宣言は外来のキリス ト教によって突然異質なものがもたらされたと考えるには無理があり、韓国史における神 …

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  • 近世日本の社会観と〈障害〉認識 : 石門心学をめぐって

    高野 信治 障害史研究 3 1-16, 2022-03-25

    「障害史」を構築し得る史料とその分析可能性を模索する仕事として、前近代とりわけ近世史料への新たなアプローチによる障害認識の析出を筆者は行ってきたが、本稿はその一環として、近世日本において庶民にも受容された「石門心学」を社会思想と捉える観点から、そこに障害認識が伏在するという見通しのもと、その析出を目的とする。ただし、このような観点からの石門心学へのアプローチは、現在までの研究史には見当たらず、試…

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  • 〈論文〉芦東山の『無刑録』編纂における『諸唐書写本』作成の目的

    原田, 信 近畿大学教養・外国語教育センター紀要. 外国語編 12 (2), 103-126, 2021-11-30

    ...[抄録]仙台藩の儒者・芦東山(あしとうざん)は若き時にその師・室鳩巣の委嘱を受け、生涯をかけて刑法思想の集大成となる書物、『無刑録』を編纂した。『無刑録』には、その編纂状況を知り得る資料が複数伝存しており、その一つが『諸唐書写本』である。『諸唐書写本』は芦東山が『無刑録』の編纂に着手してから間もない時期に作成されており、『無刑録』編纂当初の状況を示す重要な資料である。...

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  • 武家夫婦の日記と病気記録 : 広島藩儒者頼春水・静子の〈障害〉認識を考える

    高野 信治 障害史研究 2 63-77, 2021-03-25

    .../ 分析対象は、広島藩家臣で儒者の頼春水と妻・静子がそれぞれに綴った日記である。春水は藩への召し抱え、静子は広島在住を契機に、日記をつけ始め、亡くなるまで、夫・父また妻・母として、それぞれに日々の生活を書き続ける。その中には家族の病気に関する記事が多数見いだせるが、史料的にも希有なかかる日記の特色を整理する。 / その作業を前提に、病気や障害認識への議論を進める。...

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  • 一九世紀の対馬藩による清書役僧教導体制の再編

    藤本, 健太郎 多文化社会研究 7 95-118, 2021-03-23

    ...また、弘化四(一八四七)年の対馬藩士の儒者(真文役)による「儒学修行指南方」派遣という出来事を一つの契機として位置づけ、導入に至る過程を考察することにより、対馬藩内の外交実務に従事する臨済宗僧侶たちが期待された役割についても論じる。...

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  • 朱舜水がもたらした連帯原理の「僕」

    れいのるず秋葉 かつえ ことば 41 (0), 122-138, 2020-12-31

    ...<p>江戸初期、漢文ブーム時代、明の亡命儒者朱舜水と日本の儒者との間に「生きた漢文」の学習が始まった。朱舜水と日本の儒者・儒生とのあいだで交わされた書簡その他に「僕」が多数観察される。しかし、「僕」は、他の漢語自称詞(「拙者」など)に遅れて江戸中後期になるまで日本語の書簡では使われなかったことがわかっている(れいのるず2018)。...

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  • 大槻磐渓の漢詩

    島森, 哲男 宮城教育大学紀要 54 507-524, 2020-01-30

    ...本稿では幕末から明治の初めを生きた仙台藩の儒者、大槻磐渓(1801 ~ 1878)の漢詩を、⑴天地の一蠧魚、⑵開国論、⑶獄中の詩、⑷狼の詩、⑸旅の詩、⑹花の詩、⑺晩年の詩、⑻三男文彦への激励、の₈つの観点に沿って読み解き、その生涯と思想の一斑を辿ることを目指す。...

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  • 貝原益軒による藩撰地誌の編纂と地理的知識の形成

    竹内 祥一朗 人文地理 72 (1), 1-20, 2020

    ...特に京都では幕藩体制の枠組みを離れた,儒者や公家からなる独自のネットワークを利用して情報の蓄積が図られていた。最終的に,『筑前国続風土記』は型式や政策との関係の点で,官撰地誌史上の17世紀と18世紀の間に適切に位置づけられることを確認し,さらに益軒の考えや配慮に由来する『筑前国続風土記』の個性は19世紀以降の地誌編纂に継承されていくことを指摘した。</p>...

    DOI Web Site Web Site 被引用文献1件 参考文献5件

  • 王充における儒家と王朝

    笠原, 祥士郎 北陸大学紀要 (46) 2019-03-31

    The purpose of this paper is to consider Wang Chong’s postulated position on the glorification of the Han. Often called a heterodox and critical thinker who praised the Han Dynasty while …

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  • 方苞における『周官』の修辞法解釈

    木本, 拓哉 崇城大学紀要 44 179-190, 2019

    ...康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代に仕えた儒者の一人に方苞がいる。方苞は『周礼』『儀礼』『礼記』の三礼の学問を深め、三礼義疏館の副総裁を務めた。本論考は方苞の『周礼』解釈を、その修辞法分析という観点から探るものである。方苞は『周礼』夏官の大司馬こそ、聖人の遺徳が込められた文章と考えていた。...

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  • 農村に暮らす : 藍澤南城の田園詩

    村山, 敬三 大東文化大學中國學論集 34 35-57, 2016-12-31

    ...江戸後期の儒者藍澤南城は、越後柏崎の地に私塾三余堂を経営していたが、農業を重視し、田園詩を多く作っている。その詩は単に農民や農村を題材として描写しようとしただけのものではなく、風土風俗に関わるものが多く含まれている。それは実録であり、歴史の記録としての意味を持つと南城は主張する。南城が言う「実況」の詩では、実録の精神を基本として、さらにそこに創意が加えられ、詩的感興が伴う作品になっている。...

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  • 藍澤南城田園詩譯註稿

    村山, 敬三 大東文化大學中國學論集 34 59-86, 2016-12-31

    ...江戸後期の儒者藍澤南城は、越後柏崎の地に私塾三余堂を経営していたが、田園詩を多く作っている。南城には尊農思想があり、三余堂の入門者の半数以上が農民であった。農村に暮らした南城にとって、田園詩は彼の詩を特徴づけるものである。南城の詩文集『南城山人三余集』から田園詩を取り上げ、訳注を試みてみた。内山知也著『藍沢南城 詩と人生』で訳されているものは除いた。...

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  • 近世大坂の開発と社会=空間構造 : 道頓堀周辺を対象に

    塚田, 孝 市大日本史 19 65-83, 2016-05

    ...はじめに : 日本の近世史研究は、戦前までは政治史や外交史が中心で、幕藩領主など支配者の残した史料や儒者や文人などの知識人の書いた文献などが用いられることが一般的だったが、戦後には村方文書が、やや遅れて町方文書や仲間関係の史料が本格的に用いられるようになり、研究の内容は大きく転換した。……...

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  • 藍澤南城の三餘堂

    村山, 敬三 大東文化大学漢学会誌 55 155-176, 2016-03-10

    ...江戸後期の儒者藍澤南城は文政三年、越後国刈羽郡北条村南条に学塾三余堂を開いた。三余堂について解明すべき点は多く残っている。南条は農村地域であり、ここに私塾を開いたことについてはいくつかの理由が考えられる。三余堂は三代続いたが、南城の時代の入門者は名簿(三余堂弟子籍)に拠れば七百二十六人であり、多くは十四歳前後の入門であると考えられる。...

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  • 藍澤南城「三餘集自序」訳注稿

    村山, 敬三 大東文化大學中國學論集 33 29-52, 2015-12-31

    ...「三餘集自序」は、江戸後期の儒者藍澤南城の詩文集『三餘集』巻十四所収で、刊本『南城三餘集』のための自序。『南城三餘集』では「三餘集題言」として載せられている。これは、その「三餘集自序」についての訳注稿。「三餘集自序」は詩集の序であるから当然詩に関係した内容ではあるが、南城はここで自身の経学にも触れながら「折衷」という詩作の方法について説明している。...

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  • 鎌倉中期の京・鎌倉の漢籍伝授とその媒介者 : 金沢文庫本とその周辺

    福島 金治 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 198 91-110, 2015-12-25

    ...こうして、要人の家では蔵書を文庫で管理し、儒者が継続的に教授し、伝授された者同士がそれぞれの本を相互に校閲する環境が整った。漢籍の鎌倉からの地方伝播は、清原教隆が伝授した『論語集解』を通して検討した。嘉暦鈔本は加賀白山八幡院玉蔵坊での書写本で、奥書にみえる得橋禅門への伝授は鎌倉で行われたと考えられる。得橋氏は加賀国得橋郷の惣地頭とみられ、六波羅料所の管理人的立場にあったと推定される。...

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  • 蟹養斎における『小学』理解から見た初学教育への視線

    高橋 恭寛 道徳と教育 333 (0), 3-, 2015

    ...養斎は、朱子学の初学教育書『小学』を実際の教育課程に組み込んだことで知られる儒者であった。しかし『小学』学習にどのような成果を養斎が期待したかという点は、これまで全く言及されてはこなかった。そこで本稿では、『小学』が次の学習段階へどのように接続されるのか、養斎がその理論化を試みていたことを見た。...

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  • 頼家時祭における親族からの供物食品贈答と参加状況の変遷

    小竹, 佐知子, 大久保, 恵子 日本獣医生命科学大学研究報告 63 27-39, 2014-12

    ...江戸後期広島藩の儒者として活躍した頼春水(1746 ~ 1816,延享3 ~文化13)邸で行なわれた時祭(四代前までの祖先および始祖をまとめて祭る)には,弟達二人,姻戚4 家,廃嫡子,叔父,妻実家からの供物食品贈答があった。各家の事情によって,贈答の頻度や食品内容は異なったが,血縁のあった弟達,廃嫡子,叔父家庭では,供物贈答の習慣が次世代に継承されていた。...

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  • 森鷗外と『金瓶梅』

    阮, 毅, RUAN, Yi 日本語日本文学 (24) 29-43, 2014-03-20

    ...正保元年に日本に入り、儒者の間に流行した。優れた漢学素養をもつ森鷗外が、その『金瓶梅』にいかに影響され、また、どのようにそれを作品創作に生かしたのかを考えるのが小論の目的である。三好行雄氏をはじめとする先行研究では、森鷗外の『雁』と『金瓶梅』のかかわりを、西門慶、潘金蓮、武大郎三者の関係を岡田、お玉、末造の関係に見立てているが、そこから一歩踏み込んでの研究はされなかった。...

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  • 山本泰順『洛陽名所集』にみる名所観

    長谷川 奨悟 日本地理学会発表要旨集 2014s (0), 100326-, 2014

    ...彼は,1636年(寛永13)に山本友我の息子として生まれ,泰順父子の起こした事件によって,1669年(寛文9)に,儒者としてあるまじき振舞いとして,父と共に洛東粟田口で磔に処され,罪人として享年34歳でその生涯を終えた。...

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  • 幕末の熊本藩儒辛島蘭軒について

    大島, 明秀, 成富, なつみ 國文研究 (58) 33-46, 2013-06

    ...本稿では、著名な儒者辛島塩井の次男であり、自身も時習館訓導に就任した学者でありながらも、従来の研究史で着目されることはなかった辛島蘭軒についての新出史料を紹介し、新たな事績を提供した。 新知見として、まず、藩校時習館の句読師や訓導に任ぜられた一方で、番士、穿鑿役、川尻作事監、所々目付などの役職を歴任していたことが明らかになった。...

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  • 鎌倉中期の京・鎌倉における漢籍受容者群 : 『管見抄』と『鳩嶺集』のあいだ

    福島 金治 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 175 1-15, 2013-01-31

    ...鎌倉幕府の要人の漢籍受容は、北条時頼・実時らの漢籍志向の性格、清原・藤原南家らの儒者との関係、武家文庫の形成などについて研究されてきたが、当該期の公武関係からの検討は不十分だった。本稿では、実時撰ともされる『管見抄』を石清水八幡宮の良清編『鳩嶺集』を媒介に検討し、鎌倉と京都の漢籍受容者群の基盤が共通することを明らかにした。...

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  • 石田梅岩の死生観 : 開悟体験と儒者としての自覚をめぐって

    澤井 努 宗教研究 87 (3), 549-571, 2013

    ...本稿では、江戸時代中期の市井に生きた思想家、石田梅岩(一六八五-一七四四)の思想に注目し、「儒者」と称した彼が生と死に関する実存的な問いにいかに向き合ったのかを明らかにした。従来、儒教の主たる関心事は、概して死、死者、死後の世界など死に関わる問題ではなく、現生、今現に生きている人間など生に関わる問題にあるとされてきた。...

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  • 岡西惟中と林家の学問

    陳 可冉, CHEN KERAN 国文学研究資料館紀要 (38) 183-207, 2012-03-14

    ...その遊学の詳細については、定かなことは分らないが、耕斎は羅山門の儒者であり、惟中は羅山の孫弟子にも数えられることになる。 直門の師承ではないが、惟中は著述の随所において林家の学を受け継ぐ姿勢を示している。...

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  • 江戸の墓誌の変遷

    谷川 章雄 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 169 325-351, 2011-11-30

    ...ただし、江戸の墓誌に表徴された個人意識は、武家や儒者など身分・階層を限定して共有されるものであった。...

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  • 朝鮮儒者の思惟様式と対外観の変容

    邊 英浩 都留文科大学研究紀要 (74) 159-169, 2011-10-20

    朝鮮王朝は朱子学によって建国され、その思惟様式と対外観は16世紀に登場した李退溪(名は滉、字は景浩、退溪は号1501~70年)、李栗谷(名は珥、字は叔獻、栗谷は号 1536~84年)によって代表される。しかし朝鮮王朝が末期に近代に遭遇したとき、その基 本的な思惟様式と対外観は大きく変容していた。それは、夷狄の中華への上昇可能性の肯 定、儒教文明化以外の文明化への視野の拡大、この2 …

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  • 石田梅岩の神儒仏習合思想に関する一考察

    黄, 海玉 佛教大学大学院紀要. 教育学研究科篇 39 19-36, 2011-03-01

    ...石田心学の祖石田梅岩は江戸中期の儒者であるが、いずれかの学派に属して教えを乞い、系統的に学問を研鑚したことのない、所謂学究型の学者ではなく、人の心に限りない重きと可能性を置き、心を律することをもって人の道を説いた実践的道徳家であり、教育家である。...

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  • 頼春水(らいしゅんすい)が残した『春水日記』にみる食品

    大久保 恵子, 小竹 佐知子 一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集 62 (0), 192-192, 2010

    ...目的:頼山陽の父・春水(しゅんすい、1746~1816、広島藩儒)が36歳から71歳で亡くなる直前まで書き続けた『春水日記』35年間分を資料として食物関連記事を分類することにより、江戸後期の儒者の生活記録を記した日記の特徴を分析した。...

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  • 吉田家の諸社家官位執奏運動 : 寛文九年吉田執奏一件争論を中心に

    橋本 政宣 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 148 289-329, 2008-12-25

    ...「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。...

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  • 朝鮮中宗代における対明遥拝儀礼 : 一六世紀前半の朝鮮と明・日本

    桑野, 栄治 久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 24 105-143, 2007-03-31

    ...儒者官僚による成宗代への復古主義であり、倭人と野人を四夷からの「朝貢分子」とみなす華夷意識の表出でもあった。凶年と天災により控えられてきた貞顕王后のための豊呈の儀も翌年正朝に復活し、己卯士禍が発生する中宗一四年までは望闕礼→朝賀礼→豊呈とつづく正朝・冬至の宮中儀礼がほぼ定例どおり実施された。一方、中宗二三年冬至には王世子の望闕礼随班が実現し、ひきっづき王世子は百官を率いて朝賀礼を主宰した。...

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  • 方法としての「信」 : 疑問・批判の根底(一)

    豊澤, 一 山口大学哲学研究 14 1-15, 2007-03

    ...本稿は、近世中期の儒者・荻生徂徠(1666~1728)の思想の理解を通じて、学問における「信」と「疑」の問題の考察を試みる。われわれは、疑問を懐き、批判的であることの価値を信じて疑わない。確かな知は、懐疑から生まれる、というのが近代の常識である。この点は、福沢諭吉(1834~1901)が『学問のすゝめ』で説いて、説得力がある。...

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  • 儒者の妖怪退治 : 近世怪異譚と儒家思想

    近藤 瑞木 日本文学 55 (4), 19-28, 2006

    ...そのような思想を通俗的に普及していたのが「妖は徳に勝たず」の諺や、儒者の妖怪退治譚であった。本稿はこのような、儒家思想が近世怪談を抑圧する構造を検証するものである。...

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  • 武家社会と幕末武士/構造と行為 : 武士的徳目と行為の理解への方法論策定に向けた試論

    竹村 英二 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 31 47-68, 2005-10-31

    ...津田左右吉は、「儒者の講説するやうな道徳的教訓」は「武士の道義心」醸成にはあまり寄与しなかったとする。しかし、渋沢栄一や荘田兵五郎といった起業家に見られる儒学的公益意識や、一般には洋学者と目される福沢諭吉における漢籍の素養、さらには武術一辺倒の幕臣と認知される山岡鉄舟などにおける徂徠学、経書の素養も明らかであり、幕末武士への儒学の影響は否定できない。  ...

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  • 朝鮮成宗代の儀礼と外交 : 『経国大典』成立期の対明遥拝儀礼

    桑野, 栄治 久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 20 83-122, 2003-03-31

    ...望闕礼の停止と代行に関する規定が『経国大典』はもちろん、国家儀礼のテキストである『国朝五礼儀』にも存在しないのは、朝鮮国王と儒者官僚が望闕礼の実施を王朝国家における当然の国事行為と考えていたからである。正朝・冬至の儀礼空間は朝鮮国王の美徳と権威を内外に誇示する格好の場となり、望闕礼終了後の朝賀礼と会礼宴には、受職女真人をけじめ日本・琉球からもさまざまな通交者が参席して華を添えた。...

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  • 楠本端山の世界-『端山先生遺書』詩 訳注(その二)

    松崎 賜, 吉田 仁士, 林 浩俊 都城工業高等専門学校研究報告 37 (0), 40-29, 2003

    ...また,その志や立場は,彼のみならず節操のある儒者一般にもあてはまること,すなわち,政治家だから権力の座について力を奮って,というようには単純にはいかないことをも解説する。...

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  • 秋草と虫の音(<特集>近世の視覚-色彩・構図・風景-)

    兪 玉姫 日本文学 51 (10), 41-51, 2002

    ...韓国では儒者の精神修養のための梅、蘭、菊、竹、松などが主な素材で、草花が愛でられる伝統はなかった。唯一出てくる撫子も"心細い君子"にたとえられている。申師任堂の「草虫図」はその意味で特殊な価値を持っており、女流文人だから可能な世界でもあった。...

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  • 清水春流と護法書

    湯浅 佳子 日本文学 45 (6), 22-30, 1996

    ...本論では、春流の儒仏思想に着目し、それが中国や日本の仏家によってなされた護法書の、特に神不滅論の影響下にあること、さらに春流が儒者と標榜する所以もまた、「真儒」論を説く護法書の考え方に拠るものであることを指摘する。...

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  • 『子は怪力乱神を語らず』考(下)

    中村, 一基 岩大語文 1 12-17, 1993-03-25

    ...「『子は怪力乱神を語らず』考(上)」(『岩手大学教育学部研究年報第五二巻第三号)では、中国・日本の儒者による「子は怪力乱神を語らず」(『論語』述而)の解釈を基点にして、祖霊祭紀に対する態度の相違について考えてみた。その場合、日本の儒者の代表として伊藤仁斎・荻生徂徠に登場してもらった。そして、本稿においては、徂徠と同時代の儒者である新井白石に登場してもらう。なお、白石の『鬼神論』の本文は、日本思想大系三五...

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  • 月瀬梅林の名所化

    小野 佐和子 造園雑誌 54 (5), 31-36, 1990

    Tsukigase has been known for its ume (<I>Prunus mume</I>) blossums since the 19th century. Tsukigase-kisho, an account of trip to Tsukigase by Setsudo Saito with poem anthology about Tsukigase in …

    DOI Web Site 被引用文献2件

  • 五井蘭洲について

    大月 明 人文研究 22 (4), 229-240, 1971

    ...一 上田秋成は、彼の随筆『膽大小心録』(文化五年)のなかで、「段〃世がかわって五井先生といふがよい儒者じゃあつて、今の竹山履軒はこのしたての禿じや。契冲をしんじて国学もやられた。……...

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  • 明治前期(1872~1903年)における歴史教育方法の研究

    吉田, 太郎 横浜国立大学教育紀要 8 123-139, 1968-12-20

    ...明治初年から10年代までの歴史教育の方法は,根本は儒者の教授法式の域を超えたものではないが,上述のごとく幼童に学習の苦痛の軽減を図る改善の跡は十分見うけられる。長年の陋習とも云うべき素読は,入門時に幼童が通らなければならぬ苦難の関門であった。このことはつぎの回想記で明らかである。...

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  • 昌平校における歴史教育の研究

    吉田, 太郎 横浜国立大学教育紀要 4 41-57, 1964-12-19

    ...この原因は,近世儒者は経学専攻で経学の原理の実証的反省の資料として歴史をみておった。(ロ)儒者出身でもよいが歴史を専攻する学者が昌平校には在任しなかった。(ハ)儒者は中国崇拝者が多いので,勢い中国の歴史書の左伝・国語・史記・漢書・通鑑綱目を基本として終始変えなかったが,日本の史書は誠に微々たるものであった。(ニ)歴史の解釈は朱子の綱目史観を墨守した。...

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