検索結果を絞り込む

本文・本体へのリンク

検索結果 31 件

  • 1 / 1

  • 岸田國士「ママ先生とその夫」の上演をめぐって

    宮内 淳子 日本近代文学 94 (0), 152-166, 2016

    <p>岸田國士は、悲劇だけに劇的なものを見るのではなく、現代では日常のなかに喜劇を発見する批評精神が求められるとする。だが、この日常の喜劇は書かれたものだけでは機能せず、観客を入れた劇場ではじめて発信されるという。具体例として岸田國士「ママ先生とその夫」を取り上げ、築地座での上演時の岸田の演出ぶりや、俳優たちが戯曲からどのように役を立ち上げていったかなどを、当時の劇評や主演者の回想などを資料とし…

    DOI Web Site

  • 遠近法の壊し方 : 藤枝静男の場合(<特集>絵画・写真・映像-像と文学の近代-)

    宮内 淳子 日本文学 51 (11), 46-56, 2002

    明治以降、紹介された西欧の近代絵画は、小説におけるリアリズムの定着に力を及ぼした。藤枝静男は私小説を志しながらも、こうした絵画がもたらした構図を離れ、晩年には民画やコラージュなどに触発されて、従来のリアリズムでは追求しきれなかった「私」を描こうとした。民画の俗に対する宗教画の聖として折口信夫『死者の書』も引きながら、聖、俗ともに、近代では忘れられがちだった種類の絵を通し<ありのまま>という虚構を…

    DOI Web Site

  • 岡本かの子「河明り」 : その「南」への志向について

    宮内 淳子 日本文学 38 (9), 47-59, 1989

    岡本かの子は女性の持つナルシシズムや母性神話によって作品を作りあげたとするかの子論が多いが、それだけで作品は書かれ得るか、という疑問から小論は出発している。かの子の創作への欲望の基にはナルシシズムより、むしろ果たされぬ憧憬がある。しかしその欠乏感を語ることに満足していれば結局ナルシシズムに陥る。かの子はそこから自らを「生命の充実」の場に解放する運動を小説に求めている。「河明り」は、語り手の語る出…

    DOI Web Site

  • 「蓼喰ふ虫」の頃 : 「La Femme」の消失

    宮内 淳子 日本文学 36 (6), 26-36, 1987

    「蓼喰ふ虫」が谷崎文学の転機をなす作品であることは定説となっている。小論ではその転機をなしたものとして、それまで谷崎がとらわれてきた「永遠女性」の消失を据えた。この至上価値が失われた時、谷崎は閉ざされた価値体系から開放され、改めて自ら「永遠女性」の語り手になる自覚を持った。そこに谷崎の古典回帰の時代が生じて来る。「蓼喰ふ虫」に描かれた三人の女性の「うそ」と「ほんたう」を比較しながら、この時期の谷…

    DOI Web Site

  • 1 / 1
ページトップへ