検索結果を絞り込む

本文・本体へのリンク

検索結果 127 件

  • 1 / 1

  • 山月記』李徴の七言律詩に答詩する

    岡本 利昭 研究紀要 : 神戸大学附属中等 論集 6 15-20, 2022-03-31

    ...中島敦の小説「山月記」には主人公である李徴の七言律詩が効果的に使われているが,本来であれば,友人同士では,詩は相互に贈答を行うことが普通である.「山月記」を読み終えたあとの表現活動として,友人の袁傪の立場になって,李徴に送別の詩を返すという実践を行った....

    DOI HANDLE

  • 学習者の「解離」が示す文学教育の課題と可能性

    河上 裕太 国語科教育 89 (0), 3-11, 2021-03-30

    ...学習者Tの『山月記』論でも自身の読みとして授業の読みを提示しながら、初読の際の問題意識に触れるという形で、統合されない二つのパースペクティブが表現されていた。</p><p>教室で文学を扱う場合、学習者は教師と作品に引き裂かれ「解離」する可能性がある。また『山月記』に特有の作品構造も学習者の「解離」を刺激する可能性がある。...

    DOI Web Site

  • 中島敦が愛知県依佐美村を訪れた日

    鈴木, 哲, SUZUKI, Tetsu 桜花学園大学学芸学部研究紀要 (13) 25-44, 2020-11-30

    ...中島敦(1909-42)は格調高い表現,学識,厭世観を特徴とする東京生まれの小説家で(Kodansha, 1993, p. 1038),1951年以後高等学校国語教科書採用の「山月記」(1942)で知られる。夫人の中島(旧姓橋本)タカ(1909-84)は愛知県碧海郡依佐美村(1906-55)の出身である。...

    機関リポジトリ

  • 虎であるとはどのようなことか

    石井 要 日本文学 67 (4), 59-69, 2018-04-10

    ...<p>本稿では、主に漢文脈が重視されてきた中島敦「山月記」における創作手法について、中島敦が知り得た生物学の知見を踏まえて論じた。「山月記」は、虎の意識をめぐる李徴の発話内容が李徴を虎に変身した人物であるかのように読ませているのであり、虎に変身した物語/していない物語どちらにも読むことができる。そこに典拠「人虎傳」との差異がある。...

    DOI

  • 中島敦「山月記」一考察 : 〈名〉について

    杉岡 歩美 同志社国文学 (88) 25-37, 2018-03-20

    ...多くの高校二年生向け国語教科書に掲載されている中島敦の「山月記」を取り上げる。「山月記」の「自意識」という主題については一定の研究がなされたことから、従来指摘の多い〈文字〉や〈言葉〉との関係を再度踏まえながら、もう一つ〈名〉の問題に焦点をあて、考察を深めた。...

    DOI 機関リポジトリ Web Site

  • 文学教材「山月記」の可能性について

    前田 角藏 日本文学 65 (1), 46-58, 2016-01-10

    ...<p>中島敦の『山月記』は、高校国語の定番教材である。ただ、そこで読まれてきたことは、虎になった李徴の原因を、主人公李徴の人間性の欠如に求め、生徒の自我への反省へと導く教材として取り扱ってきたところである。...

    DOI 機関リポジトリ HANDLE ほか1件

  • 検定教科書定番教材三題

    白石 良夫 日本文学 63 (1), 53-60, 2014-01-10

    ...</p><p>二 「李徴はなぜ「狂悖の性」を抑えることができなかったか」</p><p>「山月記」の李徴の「狂悖の性」を「きちがいじみてわがままなさま」とする教科書の註は、儒教思想史の常識からいえば、漢学の家の人、中島敦の作品の読み解きとしては、間違っていることを指摘。...

    DOI Web Site

  • 「羅生門」「山月記」の〈語り〉を読む授業――その構築に向けて

    丸山 義昭 日本文学 61 (8), 54-64, 2012

    ...<p>「羅生門」「山月記」、それぞれの〈語り方・語られ方〉を読むことで、物語内容をどう対象化していけるか。どのような問いかけによって、生徒の読みを揺さぶることができるか、「羅生門」では生徒の読みを検討しながら、授業を進めた。「山月記」では李徴の語りと、作品全体の語りの双方を相対化する授業を行った。語り手の、登場人物に対する見方、人物との距離を明らかにすることで、何が浮かび上がってくるのか。...

    DOI Web Site

  • 「〈語り得ぬこと〉がある」と語る

    川嶋 一枝 日本文学 61 (3), 2-13, 2012

    ...またいかなる「語り」も特権化しない高木信氏による「山月記」の先行論文と田中氏との語り論との差異を検討していく。</p><p>作中での「李徴」と李徴を語る「語り手」の「語り」が共に抱える問題点を中心に「山月記」の語りを読み、「小説」と「物語」の峻別、人間の「語り」「表現行為」とは何かを考える。そして自分の授業、山月記の〈読み〉を超える可能性を考えていきたい。</p>...

    DOI Web Site

  • 文学教育に携わる教師に求められている力とは(<特集>授業をひらく<読み>の可能性-文学教育の根拠-)

    望月 謙二 日本文学 50 (8), 34-41, 2001

    ...小説「山月記」を分析する授業によって、高校生たちは初読の読みとは違った「読み」の世界を開いていく。文学教育に携わる教師には、自らの力で教材を分析し、分析方法を普遍化する力が求められている。他の研究者のそれとの関係の中で、今目の前にいる生徒たちに必要な「読みと分析方法」を明らかにし、授業の中に生かしていく力が求められているのである。...

    DOI

  • 中島敦「巡査の居る風景」の教材化(<特集>文学教育という可能性-子どもの世界をきりひらくために-)

    石垣 義昭 日本文学 49 (8), 19-26, 2000

    ...著名な「山月記」の作者中島敦に「巡査の居る風景」という作品がある。朝鮮を舞台とするこの作品は彼が朝鮮で過ごした中学時代の見聞に題材が取られている。弱冠二十歳の作品であり、彼の作家活動の中では習作に位置づけられている。習作と位置づけられる弱点は持ちつつも作品のテーマは本質的であり、「人間とは何か、どうあるべきか」を深く問いかける力を持つ。国際社会に立つ日本人の座標軸に触れるこの作品の教材化を考える。...

    DOI Web Site

  • 李徴とは誰か : 『山月記』私論

    中村 良衛 日本文学 49 (2), 35-46, 2000

    ...『山月記』の李徴が虎になった原因を探ることと、彼を倫理的に裁断することとは切り離せない関係に置かれているようだ。その点を改めて検証し、李徴という存在をまるごと受け止めることに主眼をおいてこの作品を論じた。原因は例の三点とは別の所に求めるべきであり、そこから、李徴が自尊心の塊として設定されていることも明らかになる。そうした李徴と向き合う点にこそ、この作品の意義は存するのである。...

    DOI Web Site

  • いのち、こころ、そしてしあわせ : 『山月記』を手がかりにして(<特集>いま、文学教育にこだわること)

    松本 議生 日本文学 47 (8), 25-33, 1998

    生きる力、いのち、などを教育目標として重視してきた中教審は、さらに「積極的な心を育てよう」と呼びかけている。このような目標、提起は、いつの時代においても、教育現場にとって必要であることは否定されまい。しかし、いま、これらの課題にとりくむにあたっては、学校、教室、生徒の現状をどのようにとらえるかによって、その方法、方向には差異が生じるであろう。ここでは、文学作品の読みをめぐって、いのち、こころ、し…

    DOI

  • 後悔の深淵 : 「山月記」試論

    山本 欣司 日本文学 47 (12), 19-28, 1998

    ...李徴はなぜ虎になったかという問いが、「山月記」研究において制度化した結果、李徴はこれまで、虎になるほどに非人間的であった男と見なされ、批判の対象となってきた。そういう意味で、従来の「山月記」論は李徴排除の力学を構造化しているといえる。本稿では、李徴の自己概念の歪みに注目し、李徴の自己分析からその過去を復元することが不可能であることを指摘するとともに、李徴の現在に眼を向け、彼の後悔の位相を探った。...

    DOI Web Site

  • ボルヘスの短歌と中島敦の「山月記」?

    諸坂 成利 比較文学 30 (0), 125-134, 1988

    <p>  Creative reading and writing should be, in a sense, understood as a kind of citation, which summons words, not into court but into a ‘literary space.’</p><p> The fourth piece in Borges’“Tankas” …

    DOI Web Site

  • 山月記」読解

    昆 隆 日本文学 34 (6), 23-32, 1985

    ...「山月記」本文の叙述そのものから、「作品」としての、(辞書的)意義ならぬ(文脈的)意味を、読解しようとする試みである。基本線は、変身後の李徴が亡霊であること、その悲痛な独白自体が彼にとって未到の詩的達成を遂げていたこと、そして、鎮魂のあったこと、に在る。意識家李徴は変身による不幸の完成によって、無意識の裡に、感情の表現を得た-という逆説が、読み取られる。...

    DOI Web Site

  • 1 / 1
ページトップへ