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検索結果 163 件

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  • <研究論文>「阿蘭陀国主」宛家康書状 : 日本側とオランダ側の認識

    クレインス 桂子 日本研究 67 7-33, 2023-09-29

    本稿では、慶長14年7月25日付「阿蘭陀国主」宛家康書状について、ライデン大学図書館所蔵写し、以心崇伝「異国日記」における内容控と書状作成経緯に関する記事、エマニュエル・ファン・メーテレン『ネーデルラントおよび隣邦の歴史』(1614年)所収の同書状オランダ語訳を取り上げ、多角的に分析した。  家康書状の内容やその舞台裏の検討を通じて、君主間レベルにみられる最初期の日蘭関係の有り様を探求するととも…

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  • 浜松城と徳川家康

    山下 航 教育研究実践報告誌 6 (2), 19-26, 2023-03

    本論文では、城郭史にみる浜松城の位置づけを、発掘成果や地方史料などから考察するにあたって、以下の3つの論点に注目する。 まず1つ目は、浜松城の立地の悪さについてである。浜松城の歴史や見付(磐田との比較を通じて浜松という土地の弱さを指摘した。2つ目は、浜松城天守の有無とその姿である。堀尾時代に建てられた天守については、浜松城跡24次調査により、その実在が認められた。また、堀尾が建てた松江城の様式が…

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  • <研究論文>驚異へ捧げる賛辞 : ナポリ随一の文筆家ロレンツォ・クラッソに見る日本像

    小川 仁 日本研究 = NIHON KENKYŪ 65 69-117, 2022-10-31

    ...この著作は、豊臣秀吉や徳川家康も取り上げている。日本をはじめとした非ヨーロッパ文化圏の人物を、報告書や旅行記形式ではなく、人物伝あるいは伝賛という形式で纏め上げた著作は、同時代では他に類を見ない。 本論文は、『著名武将伝賛』で取り上げられている豊臣秀吉と徳川家康の記述を分析することで、17世紀中葉イタリアにおける日本人イメージの受容、とりわけ日本人武将のイメージの解明に注力する。...

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  • 一旗本家の目から見た近世国家 ―一旗本日向家の事例(二)―

    望月, 秀人, MOCHIZUKI, Hideto 現代と文化 : 日本福祉大学研究紀要 (145) 121-141, 2022-09-30

    ...本稿は前稿(一)での日向氏の歴史の概略を踏まえ,本題の複合国家との関係に取り組む.まず戦国時代の支城制や国衆領と日向氏との関係を,武田家臣時代と徳川家臣時代の双方に目配りして確認し,次いで豊臣時代の公儀領主制の在り方を見たうえで,徳川家康がそれをいかに浸食して徳川公儀を形成したかを明らかにする.その過程で登場する国奉行制が本稿の主題であり,まずは初代日向半兵衛政成が伊勢国奉行としていかなる活動をし,...

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  • 徳川家康の神忌と大祭 : 和歌祭の変遷をとおして

    吉村 旭輝 和歌山大学Kii-Plusジャーナル 2 43-50, 2022-05-31

    2022年,紀州東照宮の例祭である和歌祭は四百年式年大祭を迎えた。しかし,全国各地に数百とある東照宮のなかで江戸時代に渡御行列を有した大規模な祭礼は8祭礼(日光,尾張,紀伊,水戸,岡山,広島,鳥取,仙台)しかなく,現存しているものはさらに少ない。また,紀伊を除く多くの祭礼はすでに四百年を記念する大祭を2016年に終えている。ここでは,なぜ紀伊だけが2022年に四百年式年大祭を行なうのかを和歌祭の…

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  • 本多家の忍びに関する基礎的研究

    上田 哲也 忍者研究 2022 (5), 1-14, 2022

    ...家臣の考察では、最初に召し抱えられ た忍びが徳川家康から本多忠勝に与えられた兵の一人であった事が明らかになった。また、忍びの 役職だけで代々仕え続けられた家臣は少なく、途中で役替えとなった忍びが複数いた事が確認され た。  これらの忍びに与えられた職務には、探索、城の警備、城下町での事件調査、家中の調査などが あり、時代の推移と共に活動内容が変化した様子も明らかになった。...

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  • <論説>文禄四年の霊社上巻起請文をめぐって --秀吉の死を想定した政権構想--

    藤井 讓治 史林 104 (5), 557-586, 2021-09-30

    ...本稿では、人の居所に焦点を当て、一連の起請文についての基礎的分析を行い、これらの起請文が秀吉ではなく秀頼への忠誠を誓ったものであることを示し、そこでは、秀頼を頂点に、在京を原則として徳川家康・宇喜多秀家・前田利家・毛利輝元・小早川隆景の五人と石田三成・増田長盛らの奉行衆によって構成される新たな政治体制が構想されていたとし、さらに一連の起請文作成は、秀次の謀叛行為を前提としつつも直結するものではなく、...

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  • 愛知県の家庭料理 行事食の特徴

    西堀 すき江, 小出 あつみ, 山内 知子, 間宮 貴代子, 松本 貴志子, 森山 三千江, 山本 淳子, 近藤 みゆき, 石井 貴子, 小濱 絵美, 加藤 治美, 伊藤 正江, 筒井 和美, 野田 雅子, 五道 紗世, 廣瀬 朋香, 羽根 千佳 日本調理科学会大会研究発表要旨集 32 (0), 166-, 2021

    ...この地は長く政治の中心であった京に近く、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など天下統一を目指した戦国武将が生まれた土地である。江戸時代には、名古屋(尾張)に御三家筆頭で東海に君臨した尾張徳川家の居城があり、岡崎(三河)は徳川家康誕生の地で、東海道の要衝として繁栄した。また、県内を横切る東海道沿いには、参勤交代の大名や旅人が利用する宿場が9か所あり、それぞれの名物や土産物が作られ、商業が盛んであった。...

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  • 近世城下町における寺院立地の変遷に関する研究

    原田 歩 日本地理学会発表要旨集 2021s (0), 137-, 2021

    ...</p><p></p><p></p><p>2.研究地域の概要と研究方法</p><p> 城下町の立地・規模・プランに影響を与える城下町における藩領に対する政治的・経済的位置づけは,藩格や所領の規模,将軍家との親疎関係,藩政の変遷によって変化する.そこで,これらの要素を加味した上で研究地域を選定した.研究地域である福井城下町(32万石)と会津若松城下町(32万石)は,徳川家康の男系男子の子孫が始祖である...

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  • 本能寺の変の再検証 : 先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合

    熊田, 千尋 京都産業大学日本文化研究所紀要 25 148-102, 2020-03-31

    ...謀叛実行のきっかけは、天正10 年(1582)5 月に羽柴秀吉からの援軍要請により、信長が毛利攻めの親征を決め、光秀がその先陣を命令され、加えて、徳川家康らを接待するため、信長が毛利攻めの途中京都の本能寺に殆ど無防備の状態で立ち寄ったことにあった。本能寺の変は、光秀がこの舞い込んだ一瞬のチャンスを活かし、信長を襲撃したものである。...

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  • 豊臣秀吉の鷹匠とその流派

    福田 千鶴 鷹・鷹場・環境研究 4 57-70, 2020-03-20

    ...本稿は、豊臣秀吉(1537~98) の底匠たちの履歴を網羅的に検討し、秀吉が鶴取・雁取の技術を持つ優秀な鷹匠の確保をめざしたこと、かつ織田信長の旧臣たちが秀吉の鷹匠となり、さらに徳川家康が彼らやその子孫を段階的に受け入れ、その一つの家系から徳川将軍家の鷹術とされる吉田流の開祖吉田多右衛門が出ることを明らかにした。...

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  • 「忍者・服部半蔵」の誕生──昭和三九年までの作品を対象に

    田村 梨紗 忍者研究 2020 (3), 25-38, 2020

    ...史実では徳川家康の家臣である服部半蔵は、今日では代表的な忍者として知られ、多くの創作作品で活躍している。半蔵は、猿飛佐助や霧隠才蔵の活躍した大正時代の第一次忍者ブームでは出番はなかった。昭和30 年代に、小説をはじめマンガやアニメ、テレビドラマ、映画や演劇作品などに忍者として描かれ、定着した。  ...

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  • 第26回 Daiichi Sankyo くすりミュージアム

    池田 幸弘 ファルマシア 55 (5), 436-437, 2019

    ...東京日本橋,近年の再開発によって,これまでの重厚なイメージの町並みに新たな魅力が加わることで,新たな層の人々が集まるようになり活気にあふれている.この町の起源は,転封による徳川家康の入府までさかのぼる.調べてみると,当時,日比谷周辺まで海が入り込んでいたが,江戸城築城(正確には再建)に伴う堀の開削や神田山(駿河台)を切り崩した土砂で埋め立てる壮大な土木事業によって,この一帯が誕生したようである.江戸城...

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  • 自助・共助と,公助との連携を考える

    和田 一範 水利科学 62 (4), 100-120, 2018-10-01

    <p>防災の基本は,自助・共助・公助である。自助・共助・公助を語るにあたっては,自助・共助と,公助との連携を考えることが重要である。 自助・共助は,災害に際して,単に避難をするだけではない。また,これを支援する公助も,単に公的な支援の拡充という視点で展開するのではなく,自助・共助側からの発信を受けて,これに応える形で施策を展開してゆく,真の協働のパートナーとしてとらえてゆくことが重要である。 …

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  • <論説>徳川家康の叙位任官

    藤井 讓治 史林 101 (4), 663-698, 2018-07-31

    ...徳川家康の叙位任官については、家康が歴史上重要な人物であるだけに、一般書も含め多く取り上げられてきたが、基礎的事実を十分に検討しないまま、その歴史的意味が論じられている。この問題についての専論は少なく、またこうした研究においても見解が一致していないのが現状である。本稿では、事実関係が不確定な家康の左京大夫・中納言・大納言・左大将任官を中心に分析する。...

    DOI HANDLE Web Site ほか1件

  • 近衞前久が継承した鷹の言説 : 『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通して

    大坪 舞 鷹・鷹場・環境研究 2 116-126, 2018-03-20

    ...豊臣秀吉・徳川家康のために書写された『鷹百首』にたびたび引用される書が、『諸木抄』である。これは鷹書ではなく、細川高国による武家故実書でありながら、「当流」の説とされるほど重んじられている。対して、『皇鷹記』には、『持明院宰相殿旧記』が引用されている。『持明院宰相殿旧記』は「鷹の家」である西園寺家の言説を継承したものである。...

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  • 漢学的政治学の実践 :

    濱野 靖一郎 年報政治学 69 (1), 1_316-1_340, 2018

    ...</p><p> 川路は徳川家康を堯舜以上の名君とし, 「武士」 の理想を追求する (「聖人」 を目指してはいない)。川路の 「実用の学」 とは, 「修己治人」 を旨とした朱子学的 「実学」 ではなく, 「武士」 が 「御役目」 を適切に遂行する知見として 「実用」 か, との意味であった。そのため川路は朱子学に止まらず, 徂徠学や頼山陽の著作も精力的に読み込んでいく。...

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  • ウィリアム・アダムズと西洋船

    森, 良和 論叢:玉川大学教育学部紀要 (17) 57-80, 2017-12-25

    ...1600年,オランダ船リーフデ号で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムズは,来航直後から徳川家康に寵遇された。来日数年後,アダムズは家康から西洋船の建造を命じられ,2隻の船を造った。本稿ではこれらの西洋船が造られた経緯とそれが持つ歴史的意味について,家康の外交政策とアダムズの描いた北西航路探検構想との関連で考察していく。...

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  • 千川上水 : 近世・近代上水の変化する役割

    SIPPEL, Patricia 東洋英和大学院紀要 13 1-15, 2017-03-15

    ...1590年に徳川家康は江戸入府になり、 江戸市民に飲料水・生活用水を供給する必要となった。17世紀初期に神田上水・玉川上水が開削され、その以降の人口増加に伴い、未給水地域に新しい上水が整備された。千川上水は1696年に玉川上水を水源とし、江戸の小石川・本郷・淺草方面へ給水を目的として開削された。...

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  • 徳川家の女性と総本山知恩院 (史学科創立50周年記念号)

    今掘, 太逸 歴史学部論集 7 3-22, 2017-03-01

    ...慶長八年(一六〇三)、徳川家康は法然廟堂の浄土宗総本山知恩院に大伽藍を造立した。以後、御影堂には徳泰院(家康母於大)と家康・秀忠の将軍束帯像が安置され、所司代以下の武家衆が月参りをすることになる。家康が知恩院を将軍家京都菩提所としたのは、先祖松平親忠の五男超誉存牛が二十五世住職として、天皇家の帰依を受け、勅願所・浄土宗総本寺の地位を確立したことによる。...

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  • <b>パラダイムシフトが求められている </b>

    滝沢 茂男 バイオフィリア リハビリテーション研究 2017 (1), 85-87, 2017

    ...ピラミッドが逆転することによる社会崩壊「AGING CRISIS」を指摘、「ライフステージの拡大」新たな神話の提案、「バイオフィリア」の語源、</p><p> 4.国際活動の推進、</p><p> 5.機序の解明に向けて、</p><p> 6.パラダイムシフト、</p><p> 7.二つのパラダイムシフトが必要、</p><p> 8.市民の要求、</p><p> 9.個の確立と自立</p><p> 江戸幕府を開いた徳川家康...

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  • 歴史資料に基づく地形復元を用いた歴史津波の分析

    蝦名 裕一 日本地理学会発表要旨集 2016a (0), 100102-, 2016

    ...徳川家康が記した『駿府政事録』という史料には, 伊達政宗の家臣が語った話として, 政宗の家臣らが舟で沖に出ていた時に津波に遭遇し, 「千貫松」と呼ばれる松の側まで流された, と記されている. この「千貫松」は, 現在宮城県岩沼市南部の千貫山付近の地名であると考えられる.  ...

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  • 豊臣政権の関東・奥羽仕置 : 続論

    中野 等 九州文化史研究所紀要 58 131-162, 2015-03-31

    はじめに 一、家康の「関東惣無事」関与 二、九州平定後の関東・奥羽政策 三、北条氏の恭順と奥羽の静謐 四、伊達政宗の会津侵攻 むすびにかえて

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  • 島津氏の参勤に対する大坂「船除」

    木土 博成 大阪歴史博物館研究紀要 13 (0), 0019-0048, 2015

    ...しかし島津氏はそれに危機感を抱き、徳川家康・秀忠との参勤由緒を根拠に、正徳元(一七一一)年に船手に対して再開を願い出た。結果として大坂城代の判断により、船手ではなく大坂町奉行の管轄のもと、島津氏への「船除」は新たに認められる。とはいえ、正徳元年以降も島津氏は主に室津~大坂間を陸上通行したため、このような新たな「船除」は定着しなかった。...

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  • 津軽氏とキリシタン─津軽為信のキリスト教への接近(1)

    木鎌, 耕一郎 八戸学院大学紀要 (49) 15-36, 2014-12-24

    ...もう一つは徳川家康の禁教令により、京都・大坂・加賀の士族信者が津軽に流刑となったことである。本稿では、二つの局面のうち、第一の津軽為信父子とキリスト教との接点に焦点を当て、中でも津軽為信がキリスト教に接近することになった「契機」と「動機」について考察する。前半である本稿(1)では、先行研究を検証し「動機」について考察を行う。...

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  • 静岡中心部の都市改造計画における既存街路構造の評価の変遷に関する研究

    宮下 貴裕, 中島 直人, 一ノ瀬 友博 都市計画論文集 48 (3), 489-494, 2013

    ...静岡は徳川家康によって建設された城下町都市であるが、現在駿府城の天守閣は失われ歴史的建造物も多くは現存していない状況である。しかし江戸時代の街路網が近代以降も踏襲されたり、かつて商業の中心であった町人町が中心商店街として発展し続けたりと城下町時代以来の「通り」に対する強い意識とも言うべき都市づくりの理念が継承されている。...

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  • <論説>慶長期における徳川家康の寺院政策 : 学問料を中心に

    林 晃弘 史林 95 (5), 750-780, 2012-09-30

    近世初期の寺院政策については辻善之助氏以来の幕府権力による統制を重視する研究史がある。それに対して杣田善雄氏は寺院側の働きかけを前提とした対応であるとして一方的な統制という理解を否定するとともに、寺院行政の基調は学問・仏法の興隆にあるとした。本稿はかかる杣田氏の成果を前提としつつも、学問・仏法の興隆が具体的に政策化された学問料の設定を分析し、徳川政権の政策的側面を考察した。学問・仏法の興隆政策は…

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  • 新宿御苑における土地利用履歴と土壌硬度プロファイルにもとづく炭素貯留量の推定

    渡邊 眞紀子, 大野 真知子, 坂上 伸生, 村田 智吉 日本地理学会発表要旨集 2011s (0), 133-133, 2011

    ...<BR> 新宿御苑の始まりは徳川家康が江戸城に入城した天正19年、譜代の家臣であった内藤清成に屋敷領が授けられたことによる。その敷地に近代農業振興を目的とする内藤新宿試験場が明治5年に設置され、その後フランス式庭園を導入し、今日のような庭園の形になったのは明治39年であるとされる。...

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  • 名古屋城下町の正方形街区のプランと施行範囲

    水田 義一, 溝口 常俊 日本地理学会発表要旨集 2011f (0), 100075-100075, 2011

    ...また城下町の建設者をみると、豊臣秀吉、徳川家康あるいは両者と関係の深い城下町にのみ正方形街区がみられる町がある。...

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  • 日本近世における産物記録と土産・名物・時献上

    東 昇 洛北史学 12 (0), 25-45, 2010-06-05

    ...この時献上の選定理由として、豊かな肱川の存在や徳川家康との由緒等があげられる。また時献上と同じく、領内でも旧家の庄屋層による産物献上が実施されたが、この献上に鮎はみられず、他の産物との階層差が存在した。領内の産物には、幕府への時献上(伊予簾・鮎)を頂点として、領外へ販売する名物(和紙・焼物・蝋)、藩の台所への献上(柿・蜜柑)、それ以外の土産と階層があったといえる。...

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  • <研究資料>ポンペの日本史観

    クレインス フレデリック 日本研究 40 319-356, 2009-11-30

    ...一つ目は、ポンペが先達の日本史研究を拠り所にしながらも、幕府の成立したその過程において重要な役割を果たした源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康という人物について当時の読者に対して多くの新しい情報と詳細な分析を提供していることである。この点においては、ポンペは従来の文献研究から離れて、日本史について直接日本人から情報収集を行っていたとの結論に至った。  ...

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  • 江戸幕府成立期における武家服飾上の画期

    寺嶋 一根 洛北史学 11 (0), 20-46, 2009-06-06

    ...慶長・元和期の徳川家康を中心とする儀礼における装束を考察し、慶長八年(一六〇三)二月と慶長二〇年(一六一五)一月に二度の画期があったことを明らかにした。一度目は、家康の将軍宣下を契機としたものであり、それ以降、家康のもとへ御礼に向かう公家たちは室町将軍対面時の故実に則った装束を着用したが、一方家康は武家固有の装束である直垂を主とする服装をとり、狩衣を最上位とする従来の武家装束大系とは一線を画した。...

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  • 南信州遠山郷に歴史的文化的資源を生かした「神様王国」をつくる計画とその具体化

    藤田 佳久, 高木 秀和 人文地理学会大会 研究発表要旨 2008 (0), 202-202, 2008

    ...その背景には、江戸時代に入ると、中世土豪の遠山氏に代わり徳川家康がこの一帯を支配し、江戸の町づくりのための森林資源の確保と、武田残党の監視のために、他国との交流を断ち鎖国状態にしたことがあった。地元民は飢饉や疫病に悩んだが、なす術もなかった。それが江戸時代後半に入ると森林資源が枯渇し、鎖国状態がゆるみ、飯田と遠州方面を結ぶ秋葉道の利用が高まり、和田には自然発生的に宿が成立した。...

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  • 天正年間における家康への近江在京賄料について

    片山, 正彦 佛教大學大學院紀要 34 41-53, 2006-03-01

    豊臣政権期には、「在京賄料」といわれる知行が存在する。在京賄料とは、豊臣政権の傘下に入った諸大名が、上洛の際に必要な費用や在京中の費用を賄うための知行であるといわれる。これは豊臣政権による諸大名への上洛催促に対応していることから、諸大名統制の一環であると考えられ、天正十四年(一五八六)以降に豊臣氏と主従関係を結んだといわれる徳川氏もその例外ではないと思われる。在京賄料の宛行は、豊臣政権にとって重…

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  • お家の継承 第22話:類い希なる"人間通" 徳川家康(二):第二十二話

    童門 冬二 日経ベンチャー (250) 100-103, 2005-07

    ...徳川家康の平和好きは、単に平和が好きだということだけではない。その底には、戦乱の世をくぐり抜けてきた、いろいろな山河がある。例えば、戦国時代には"下克上"という考えがあった。文字通り読めば、 「下が上を越える、あるいは下が上に克つ」 という意味だ。しかし、家康はそんな単純な考え方はしない。 家康は少年時代、今川家の人質だった。...

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  • お家の継承 第五話:古笠に託した父の思い 板倉勝重・重宗

    童門 冬二 日経ベンチャー (233) 94-97, 2004-02

    ...徳川家康は慶長五(一六〇〇)年九月、関ヶ原の合戦に勝つと、すぐこのポストに譜代の家臣を任命した。 その職務は、天皇や皇族、公家の監視、京都・奈良・伏見の三奉行の統括、京都周辺八カ国の天領で起きた訴訟の処理、西国大名の監視など多岐に渡る。いわば、「徳川幕府の京都支社」と言っていい。...

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  • 在郷町の天王祭礼 : 桐生新町と大間々町の事例から

    板橋 春夫 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 95 135-145, 2002-03-29

    ...祭日は徳川家康が関東に入った際に絹織物を献上したところ、それが勝利の吉例になったのにちなむというものである。大間々町の天王祭礼に関する聞き書きを行い、具体的な祭りの様子を記述した。全国各地で伝統的祭礼が衰退し、代わりに行政主導型の新しいイベントとして改編する動向がある。桐生市や大間々町の天王祭礼はそれぞれ高度経済成長期に大きな変化があった。...

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  • 豊臣七将の石田三成襲撃事件 : 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽

    笠谷 和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 22 35-47, 2000-10-31

    ...関ヶ原合戦の端緒をなすこの著名な事件の経緯をめぐっては、豊臣武将たちの襲撃計画を事前に察知した石田三成は大阪から伏見に逃れ、そして伏見にある徳川家康の屋敷に入ってその保護を求め、家康もまたこれを受け入れて豊臣武将たちによる三成の身柄引き渡し要求を拒絶し、三成を近江佐和山の領址に逼塞させることで問題を解決に導いたという認識が示されてきた。...

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  • 旧江戸城石垣の崩壊および復旧工事に関する研究

    岡松 泰弘, 新谷 洋二 土木史研究 18 513-520, 1998

    ...1590 (天正18) 年に徳川家康が居城として以来、孫の家光の代まで約40年をかけて築かれた。しかし完成後、明治維新までの約240年間に絶えず災害等により被害を受け、その都度復旧されてきた。明治以降も大正12 (1923) 年の関東大震災で大被害を受けている。...

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  • 徳川家康の源氏改姓問題

    笠谷 和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 16 33-48, 1997-09-30

    ...徳川家康の姓氏問題は複雑である。家康はその血統的系譜を清和源氏の流れを汲む新田一族の一人得川四郎義季の末裔たることに求め、自らの姓氏を清和源氏と定めたとされるが、これは天下の覇権を掌握した家康が、慶長八(一六〇三)年の征夷大将軍任官を控えて系譜の正当化をはかる目的で、そのような始祖伝承を無理に付会していったものであるとこれまで見なされてきた。...

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  • 京都改造: ひとつの豊臣政権論

    鎌田 道隆 奈良史学 (11) 21-49, 1993-12

    ...おそらく、織田信長の仇を討ち葬儀をも主催した豊臣秀吉の場合は、血脈ではないけれども、正当な後継者として是認されたのに対し、秀吉と徳川家康との関係では、家康が秀吉の政権を纂奪したという評価から、一種の反倫理的なうけとめ方があったからであろう。...

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  • 徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制

    笠谷 和比古 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 7 89-104, 1992-03-30

    ...慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。  ...

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  • <論説>旗本領と近世の郷荘 : 遠州井伊谷・気賀地方を例として

    山澄 元 史林 56 (6), 839-899, 1973-11-01

    ...近藤家は中世末期より井伊谷に在住して永禄一一年(一五六八) の徳川家康の遠州経略の手びきをなした功臣として出世し、元和五年(一六一九) には大名格として父祖の地井伊谷に陣屋を構えたが、ほどなく領地を解体分知して、金指・井伊谷・気賀・大谷・石岡の五旗本家領を析出させた。...

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  • 聖徳太子私観

    肥後, 和男, Higo, Kazuo 立正大学文学部論叢 (37) 3-28, 1970-03-25

    ...徳川家康が元和二年四月十七日に駿府城内で亡くなったということは,誰でも認めている。しかし彼がいかなる人物であったかということになるとこれはさまざまの見方が可能である。いやな狸爺だと見るもの,きわめて有望な政治家であったと見るものなどいろいろである。そこにはそれを見る歴史家の個性が基礎的に働くからである。...

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  • 新家堂上家廃絶録稿

    平山 敏治郎 人文研究 20 (9), 748-765, 1968

    ...一 天下布武を目ざした織田信長の入京にはじまる社会秩序の回復事業は、豊臣秀吉・徳川家康へと引き継がれて、新しい武家政権の下に封建体制は一段と強固に再編成を見るに至った。この間において、戦国乱離のうちに経済的な地盤を失ったり、家名を継承する子息がなくて断絶した堂上公卿の家も少なくなかった。……...

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