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検索結果 593 件

  • 芥川龍之介の「創作」

    五島 慶一 日本近代文学 107 (0), 1-16, 2022-11-15

    ...しかしそこには同時期に「芋粥」を『新小説』に発表してメジャーデビューを果たした芥川による、文壇動向把握と自身の創作手法提示が明に暗に窺われる。即ち、「モデル問題」という語を提示して自然主義を、更に「トルストイヤン」ら人道主義者をも揶揄して「僕」が示す独特な「創作」の態度は、偏に末尾で『ジャン・クリストフ』を引用しつつ示される「ものの観方」の独自性に強く依拠するというものであった。...

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  • <研究論文>戯画化されるニーチェ : 「滑稽」と「諷刺」の模倣

    清松 大 日本研究 64 91-106, 2022-03-31

    ...こうした現象は、「文閥打破」を掲げて既成文壇の批判者を自任し樗牛とも敵対関係にあった青年雑誌の特質を反映したものとみなすことができる。そして、中央文壇や論壇への対抗意識を燃やす青年たちの武器として選び取られた「滑稽」や「諷刺」への問いと実践は、美的生活論争以前にほかならぬ樗牛・逍遙によってたたかわされていた「滑稽文学(の不在)」をめぐる論争以降の文学空間に伏在していた要求であった。...

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  • 辰野九紫、登場

    藍木 大地 笑い学研究 29 (0), 37-52, 2022

    ...辰野が『新青年』に初登場した1929年は、文壇としても読者としても「ユーモア小説」を希求していた時期だった。特に出版社は多くの読者を獲得するため、新たなユーモア作家の発掘が急務だった。講談社系の雑誌に多くの作品を発表していた佐々木邦の対抗馬として、『新青年』を発行する博文館が見出したのが辰野九紫であった。...

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  • 『新文壇』上の小川未明

    山本 歩 尚絅大学研究紀要 A.人文・社会科学編 54 (0), 1-14, 2022

    ...本稿では特に、その機関誌『新文壇』において、小川未明が果たしていたと思われる役割について検討するものである。未明の文章は、新作を含めて多数掲載され、新時代の描写法の模範として紹介されていた。それは読者の投稿作にも影響を与えており、彼が『新文壇』という媒体において重要な役割を果たしていたことが窺える。...

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  • 指にぴったり?フェミニズムから見た清水紫琴の「こわれ指環」

    Martínez Sirés Paula 日本・スペイン・ラテンアメリカ学会誌 32 (0), 31-45, 2021

    ...明治の文壇に言文一致が導入され始めた頃、女性作家に対する表現の制限を打破するため、紫琴は直接的かつ自然なスタイルで「こわれ指環」(1891)を執筆する。本稿では、『こわれ指輪』の初スペイン語翻訳を通じて、清水紫琴の信念やフェミニズム的な切り口を検証する。</p>...

    DOI Web Site 参考文献14件

  • 文学と経済学の時代の中で

    友添 太貴 日本近代文学 101 (0), 142-155, 2019-11-15

    ...そして、理論的に破綻しているポーレの経済学を分析した静田の論文を取り込むことで、「寝園」が経済学理論を「現実」の経済状況に当てはめて文学を生み出していこうとする同時代の文壇状況への批評性を持つものであることを提示した。</p>...

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  • 漱石をめぐる闘争 --「木曜会」共同体にみるホモソーシャルな関係性--

    椎名, 健人 京都大学大学院教育学研究科紀要 65 201-218, 2019-03-27

    ...1903年から1909年頃に集った当時東京帝国大学在学中の門下生たちが形成していた文学サロン的共同体(=「木曜会」共同体)を、日本で明治30年代からその形成と自律化を始めた「文学場」における党派の一つとして位置付けたうえでその共同体としての性質を、イヴ・セジウィックが『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』で提唱したホモソーシャルという枠組みを用いて分析し、明治末期から大正初期にかけての文壇及...

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  • 溶解していく文学者たちの〈近代〉

    浅野 正道 日本文学 67 (11), 24-34, 2018-11-10

    ...本稿ではこの会に焦点をあて、菊池寛から徳田秋声のような純文学派に至る文学者たちが、なぜ自発的にそこに巻き込まれ、自らの〈近代〉を喪失することになったのかという点について、当時の文壇における重層的な論理に即しながら考察することにする。</p>...

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  • 「明治文学談話会」と文学史

    中山 弘明 日本近代文学 98 (0), 116-131, 2018-05-15

    ...さらに伊藤整『日本文壇史』への影響を辿り、〈談話〉を聞き取る方法が喚起する歴史叙述の可能性について考察したものである。</p>...

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  • 「科学的精神」の修辞学

    加藤 夢三 日本近代文学 98 (0), 194-209, 2018-05-15

    ...<p>一九三〇年代、日本の文壇・論壇において「科学的精神」という表現が広く流通していた。そこに充填される意味内容のずれを検討してみると、同時代の論壇・文壇・科学者共同体が、それぞれに「科学的精神」を一種の表現戦略として用いることで、みずからの知的基盤を仮構することに意識的であったことが窺われる。...

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  • 明治・大正・昭和初期のブロンテ姉妹の受容 : 東京女子大学図書館所蔵の文献を中心に

    佐久間, 千尋 東京女子大学紀要論集 68 (2), 127-138, 2018-03-15

    ...しかし、この言及がその後のイギリスと日本の両文壇を関連づける批評の契機となったといっても過言ではない。全体を通して、今回、『ジェイン・エア』以外の作品についての詳細な分析はほとんど見受けられなかったが、1929年に『英語青年』に連載された細江逸記による“The Dialect of the Brontës”は、『嵐が丘』における方言や発音を分析しており、ひときわ目を引くものである。...

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  • 三島由紀夫『獅子』論

    藤田 佑 日本近代文学 97 (0), 33-48, 2017-11-15

    ...<p>本稿は、ギリシア悲劇を翻案した三島由紀夫『獅子』(昭二三)の分析によって、昭和二三年前後の戦後文壇における三島の立ち位置、及び三島が「戯曲」というジャンルへと接近した必然性を考察した。三島における「戯曲」への傾斜は、心理といった模糊たる内面を言葉で表現する「小説」への忌避に由来している。...

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  • 明治三十年前後の虚子俳論

    田部 知季 日本近代文学 96 (0), 1-16, 2017-05-15

    ...当初俳句を叙景詩と定位していた虚子は、「大文学」待望論が加熱する日清戦後文壇の中、次第に人事句や時間句を支持し始める。そうした複雑な表現内容の追求は、定型を逸脱した「新調」を招来するが、虚子はその背後で俳句形式からの「蝉脱」をも提唱していた。当時の虚子は俳句を「理想詩」として擁立することに挫折した反面、自立化が進む新派俳壇において指導的な地位を確立していく。...

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  • 境界地の作家ポール・ジェラルディーとドイツ語詩

    三田 順 北里大学一般教育紀要 22 (0), 1-15, 2017

    ...</p><p> アルベール・モッケルによってフランスからベルギー文壇にもたらされた象徴主義の薫香を受けたフランス語詩人として出発し、当初、モッケルが同時に主張した「ワロニー主義」への素朴な共感を示していた彼のアイデンティティーは、ドイツ語詩の試みと断念、後の風刺作品におけるベルギー批判に見られる様に、一時的な揺らぎは認められながらも終生ベルギーから離れることはなかった。...

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  • 入院する前に宇野浩二の文体は既に変わっていたのか

    劉 雪琴, 金 明哲 情報知識学会誌 27 (3), 245-260, 2017

    ...<p> 近年,テキストから抽出する文体的特徴の変化から筆者の感情や思想,精神状態などの変化を検討する研究が進んでいる.本稿では,脳の大患を経験した宇野浩二という作家の文体変化の時期を計量的アプローチにより分析することを目的とする.宇野浩二は日本の有名な作家であり,1927年に精神病にかかり,約6年間執筆活動を停止していた.1933年に文壇に復帰した宇野浩二の作風は著しく変化したと言われている.しかし...

    DOI Web Site Web Site 参考文献4件

  • 近代文学作品における継時的な文体の変化についての計量的な検討:自然主義文学について

    土山, 玄 じんもんこん2016論文集 2016 227-232, 2016-12-02

    ...分析において採り上げる作家は20 世紀の文豪の一人である夏目漱石、そして同時期の文壇の主流であった自然主義文学の作家とされる国木田独歩、田山花袋、島崎藤村、徳田秋声の小説である。自然主義とは修飾語句を避け無骨な文章が記述され、自然主義の作家にとって小説とは事実そのままの忠実な再生であり、真実を書くことを創作の目標とした。その一方、夏目漱石の文章、特に初期の作品は軽妙であったと言われる。...

    情報処理学会

  • 韓寒の雑誌に対する夢――『独唱団』から『ONE・一個』へ

    オウ, ウナン 西南学院大学言語教育センター紀要 6 17-26, 2016-03

    ...『ONE・一個』が市場において広範な好評を博した情況の中、2010 年無期限出版停止となっていた『独唱団』のことを振りかえて考えてみると、八〇後作家の生存空間と八〇後文学の発展様式が前世代の伝統的作家、そして既成の文壇と比べ、すでに大きく変化したことが分かる。...

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  • 木下杢太郎「硝子問屋」の情調表現

    権藤 愛順 日本近代文学 94 (0), 17-30, 2016

    ...さらに、Stimmungという概念が受容された結果、明治四〇年代の文壇において、無意識を表現することへの関心が広がりをみせていることも明らかにしている。</p>...

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  • 岩野泡鳴、「デカダン」の尖鋭性

    福岡 弘彬 日本文学 64 (12), 25-37, 2015-12-10

    ...<p>岩野泡鳴が『新自然主義』を中心とした諸評論で唱える「デカダン」概念の、同時代における尖鋭性と、それが昭和一〇年前後、文壇で評価される理由を明らかにした。諸規範との相克のなかで、あらゆる二元論の破砕を企てる泡鳴の営為とは、最もラディカルな「デカダン」として位置付けられる。...

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  • 日本近代文学にみる「トスカ」

    ブルナ ルカーシュ 日本文学 64 (6), 39-49, 2015-06-10

    ...ゴーリキー作・二葉亭訳「ふさぎの虫」(一九〇六年)によって「トスカ」は日本文壇でも注目され、自然主義思想と関連づけられた。のちに「トスカ」は文学表現に転換され、戦前にいたるまで様々な作品に用いられてきた。本論はこれまで注目されなかった二〇世紀前半における「トスカ」という表現の歴史を辿ったものである。</p>...

    DOI Web Site 被引用文献1件

  • 〈博士学位論文要旨〉六朝文人の政治と文学: 魏、斉、梁文壇人物の政治的焦燥感を中心に

    独孤, 嬋覚 技術マネジメント研究 14 43-46, 2015-03-31

    ...本論文は文学・政治・歴史・思想学という諸領域が交錯する場を新たな視点にし、魏・斉・梁文壇から代表的人物である曹丕・江淹・王融・蕭子良の四人を選び出し、彼らとその周辺の文人達の政治的焦燥感を中心に六朝文学を再考察した。 第一章では、曹丕の生い立ち、家族関係、生死観、歴史観、皇権、文学との関わり方、等を分析し、彼の文学作品中に「憂」字の頻出の真因を探った。 ...

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  • 「少年倶楽部」名編集長・加藤謙一と流行作家・佐藤紅緑との運命的な出会い

    齋藤, 三千政 弘前医療福祉大学紀要 6 (1), 111-120, 2015-03-31

    ...一方、佐藤紅緑は明治末期に小説、脚本で文壇から注目され、大正期には流行作家としてその地位を確立する。その加藤謙一と佐藤紅緑が大正時代末期に出会うことになる。ともに弘前出身で、謙一の父と紅緑は知己の間柄であったことから、加藤が紅緑に「少年倶楽部」への原稿を依頼した。ところが、紅緑は烈火のごとく激怒した。だが、加藤の必死の説得が功を奏し、紅緑の原稿が届く。...

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  • 「デンドロカカリヤ」論

    森村, 優太 佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 43 135-150, 2015-03-01

    ...この作品以降、安部は同様の変形譚で様々な賞を受賞し文壇で評価を得た。本作品において先行研究では、主人公である《コモン君》や、《ぼく》などが罹っている植物病や植物への変形についての考察が多く行われてきた。本稿でも同様に植物への変形にどのような意図があったのかを考察する。特に、「デンドロカカリヤ」に登場する人物像、戦後日本の状況に焦点を絞った。...

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  • 十五年戦争下の〈文学館運動〉

    大木 志門 日本近代文学 92 (0), 77-92, 2015

    ...一般に「文学館」の歴史は戦後の「日本近代文学館」設立(一九六二年)に始まるとされるが、実は戦前にも文壇をあげた「文学館運動」の萌芽が存在した。昭和九(一九三四)年に組織された「文芸懇話会」最初の事業「物故文芸家遺品展覧会」と併せて提起された「文芸記念館」構想がそれであり、主唱者である島崎藤村は文芸統制を利用して近代文学資料の保管施設を作ろうとしたのである。...

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  • 一九一〇年代の一元論

    大和田 茂 日本文学 63 (11), 2-11, 2014-11-10

    ...<p>厳しい言論状況のなか、大杉栄は文芸雑誌『近代思想』を発刊して、不合理な社会状況に背を向ける文壇に介入していった。そのなかで、相馬御風と行った論争は「個人革命即社会革命」をめぐり、大杉が「実行の芸術」という一元的立場であったのに対し、御風は「実行」と「文学」を分化させる二元論に立つ結果となった。大杉が待望する「労働者との一体感」を具現した作家に平澤計七がいる。...

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  • 文芸時評における中間小説の認識

    丸山, 倫世 表現文化 8 2-21, 2014-03

    ...はじめに : 昭和20年代から30年代の日本文壇において中間小説が一時代を築いたことは、戦後最大の文学論争である純文学変質論争の背景に、隆盛する中間小説に対する純文学の危機感があったことからも明らかである。しかし、当の中間小説の概念はきわめてあいまいだ。...

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  • 「アジアの子」試論 : 時代に迫られた留学生たち

    林 麗婷 同志社国文学 (79) 80-91, 2013-12-20

    ...従来の研究では、佐藤と郁達夫の関係や、佐藤の戦争協力が注目を集めたが、本稿では、郭沫若の脱出に対する日本文壇の反応を確認した上で、盧溝橋事件による中国人留学生の帰国現象に光を当て、佐藤のフィクションの中に隠された意識を明らかにする。そして、留学生が寄せられた期待と現実との齟齬について検討することとする。...

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  • 生き残った〈懸賞作家〉・芹沢光治良

    和泉 司 日本文学 62 (11), 13-23, 2013-11-10

    ...<p>総合誌『改造』が〈戦前〉に実施していた『改造』懸賞創作と、その当選者たちの当時の〈文壇〉及び現在の日本近代文学史上における存在意義を問い直すことを目的として、その当選者の一人である芹沢光治良に注目した。...

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  • 僧侶と隠逸表現 : 受容と再構築

    田 云明 日本研究 47 11-30, 2013-03-29

    ...彼らの文壇での活躍ぶりは、すでに『懐風藻』などの漢詩集に現れている。ここで注目されるのが、僧侶による詩作に隠逸志向を表す表現が少なからず見出せるということである。仏教修行の僧侶が隠逸表現を詩作に詠み込むことは、当時の僧侶が隠者という観念上の存在と同一視される契機となった。...

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  • 1930年代の朝鮮文壇

    李 建志 関西学院大学先端社会研究所紀要 9 (0), 33-48, 2013

    ...本稿では、まず当時の朝鮮文壇の状況を、当時のことを描いた小説「九人会をつくる頃」を参考にうつしだし、さらに当時の日本の推理小説界と、日本の社会状況をそれと比較させることで、日本と朝鮮の「空気」の違いをうきぼりにすることを目指す。...

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  • 滑稽の不在 : 明治文豪の論争

    浦 和男 笑い学研究 20 (0), 3-16, 2013

    ...明治になり、日本に近代の文学が確立する時期に、文壇でいろいろな論争が起こった。そのひとつに、「滑稽文学の不在」論争がある。20年代末、「太陽」の編集をしていた若き高山樗牛が、すでに文豪として高名な坪内逍遥のエッセーに対して、そのユーモア観を批難し論争が始まる。...

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  • 近世初期上方における名所と風景

    長谷川 奨悟 日本地理学会発表要旨集 2012a (0), 100132-, 2012

    ...この人物は,丹波国桑田郡馬路村(現:京都府亀岡市)出身の医師であり,京都の文壇で活躍した俳諧師であり,名所案内記や談話集など多くの作品を残した近世初期における重要な作家の一人であるとされている。〈BR〉 『京童』は,1657(明暦4)年に刊行された名所案内記である。序文から,喜雲によって見いだされた88ヶ所の京名所を,京童が案内する形で解説され,近景での挿絵が挿入されている。...

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  • 中谷孝雄「春の絵巻」再論 : 文芸雑誌「行動」との関係性をめぐって

    渡邊, 浩史 京都語文 18 194-211, 2011-11-26

    ...だが、この小説が発表された当時の文壇は、プロレタリア文学の衰退に伴う「文芸復興」や新しい文芸思潮を模索する興味深い時期にあった。そして、この小説が発表された文芸雑誌「行動」は、まさにそんな「文芸復興」や新しい文芸思潮を取り入れることに躍起になっていた雑誌である。本稿ではそのような点を考慮し、文芸雑誌「行動」やそこで重視された言説を渉猟し、「春の絵巻」の新たな相貌を顕わすことを目指した。...

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  • 试论安妮宝贝的短篇小说《告别薇安》-关于其人际关系与语言特点-

    素民喜 阳子, スミンキー 陽子 沖縄大学人文学部紀要 (13) 41-48, 2011-03-31

    ...@@@アニーベイビーはネット作家として彗星のごとく中国の文壇に現れた,まさにIT時代が生み出したニュージェネレーションの新進気鋭の作家である。本稿でとりあげる『さよならビビアン』は,作者が初めて出版した同名小説集に収められたデビュー作である。作者は「人間関係における授受及び被授受」そして「混沌とした社会に生きる人々がもつ孤独と困感」を重要なテーマに掲げている。...

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  • 1920年代における郁達夫の同時代批評再考

    李 麗君 言語文化論究 26 131-144, 2011-02-07

    ...本論では、主に中国における郁達夫研究を考察対象として、1920年代、特にその前半、即ち郁達夫が文壇に登場してから作家として広く認知されるまでの文学者形成期に、郁達夫文学がどのように読まれてきたかを中心として、ポイントを押さえた史的考察を行い、改めて郁達夫研究の発生と進展の跡付けをしながら、これまでの郁達夫研究の基本的枠や概念の由来を的確に把握し、郁達夫研究の今後及び郁達夫文学そのものについても考えてみたい...

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  • 「自然」の争奪

    木戸 雄一 日本文学 60 (11), 2-12, 2011

    ...文壇小説から見たプロットの「不自然」さは、新派劇によって「自然」に読み換えられた。文壇小説と新派劇の間の「自然」の争奪は、新劇と通俗小説という対抗ジャンルを成立させた。</p>...

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  • 野村胡堂の誕生

    谷口 幸代 出版研究 40 (0), 125-139, 2010-03-20

    ...<p>大正期の野村胡堂は,『報知新聞』文芸欄で,記事の執筆,新聞小説の企画などの編集作業,自らが連載読物を書く創作,と多彩に活動した.胡堂は,記者や学芸部長の活動を通して把握した文壇の動向と読者の好みに基づき,新聞小説において,新しい書き手の充実,作品の質の向上,既成の枠組みに囚われない新しい分野の開拓をめざした.読者と時代に迎合しない大胆な起用と企画力,これは胡堂自身の文学においても礎となった....

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  • 江戸時代漢学者の「語録」とその周辺 : 河口静斎『秉筆録』

    大庭, 卓也 久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 26 87-101, 2009-03-31

    ...より具体的に言えば、江戸時代中期の漢学者河口静斎(元禄十六<一七〇三>-宝暦四<一七五四>の語録『秉筆録』(祐徳稲荷神社祐徳博物館所蔵写本四冊)を材料とし、本書が、新旧の交替のめまぐるしい正徳、享保文壇を如実に物語る好資料であること、また、木下順庵門下、いわゆる「木門」の人々の直談やエピソードを多く含んで、木門を知るうえでも有用であることを明らかにする。...

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  • 「半日閑話」にみられる口中から芳香を出し続けた男の記述について

    "佐藤,恭道, 戸出,一郎, 雨宮,義弘" 日本歯科医史学会会誌 27 (3), 143-145, 2008-04-10

    ..."口臭についての記述は古来『医心方』『病草紙』『今昔物語集』などの文献にも記載が見られる.特に江戸時代には様々な歯磨剤が売られ,歯口清掃が庶民の嗜みになっていた.今回我々は,大田南畝の随筆『半日閑話』に見られる,口中から芳香を出し続けた男の記述について検索した.大田南畝は,寛政から文化,文政年間にかけて戯作や随筆などを著し当時の文壇に大きな勢力を持っていた文人である....

    NDLデジタルコレクション 医中誌 参考文献14件

  • "断裂"行動 : その理想と現実

    瀬邊, 啓子 京都産業大学論集. 人文科学系列 39 56-78, 2008-03

    ...この活動を通して,朱文たちは金銭面や創作環境を含む青年作家の置かれた状況への不満を表明しただけではなく,当時の中国文壇への挑戦を表明した。この行動は,既存の体制にあらゆる面から否やを唱えた「拒絶」の表明であったのである。  ポスト“断裂”行動としては,朱文たちは叢書の出版など活動を継続してゆくのだが,活動は次第に尻すぼみになる。...

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  • 脱神聖化する文学領域 : 大宅壮一の文壇ジャーナリズム論(<特集>文学としての情報/情報としての文学)

    大澤 聡 日本文学 57 (1), 44-55, 2008

    本稿は大宅壮一の戦前期のテクストを、《情報化》という問題関心から読解しなおすものである。大宅の当該期の作業は以下の三点に集約できる。(1)同時代の文学的事象を情報として整理する。(2)文学生成の原理を構造的情報として記述する。(3)文学を情報商品として捉えかえす。大宅はこうした作業を媒介に文学の神聖性を剥奪していく。それは小林秀雄的批評とも、あるいはプロレタリア文学批評とも、異なる批評的系譜の可…

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  • 初期小林秀雄と生命主義 : 「生の哲学」と人格主義との接点

    有田, 和臣 文学部論集 91 1-12, 2007-03-01

    ...小林秀雄が生命主義思潮の影響下にあった痕跡は、文壇デビュー前後の初期の小林の文章から比較的容易に探すことができる。生命主義のキーワードである「生命」を、文壇デビュー以前の小重量林秀雄もしばしば使用している。そしてその「生命」という用語は、初期小林の批評のキーワードである「宿命」と深く結びついた形であらわれる。一九世紀末から二〇世紀にかげての西欧に登場したのが「生の哲学」だった。...

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  • 「民衆」からの<逸脱> : 大正期「変態」概念・天才論の流行と文壇

    竹内 瑞穂 日本文学 56 (9), 53-64, 2007

    ...大正期文壇人たちは、「変態」概念を同時期に流行していた天才論と接続させるかたちで消費してゆく。そうした解釈により、「変態」概念は「芸術家」の特権性を絶対化し、彼らの社会・文化的ヘゲモニーを強化する<装飾具>へと再構築されていった。文壇人を取り巻く「民衆」の台頭という時代潮流と併せて考えれば、彼らの「変態」概念消費とは、そこで揺らぐ「芸術家」の象徴的地位を巡る闘争の一端を担っていたと考えられよう。...

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  • 講演 浮世草子作者の誕生 : 都の錦をめぐる人々

    藤原, 英城 京都語文 13 4-22, 2006-11-25

    ...元禄十五年、上方の浮世草子界にデビューし、一年余りの活動期に九つもの作品を世に送り出しながら、忽然として文壇から去った都の錦という作家がいた。これまでその特異な性格や不遇といった個人的な要因から言及されることの多かった都の錦の作家活動ではあったが、作家である限り、本屋を中心とする彼を取り巻く人々の思惑からは自由ではあり得なかった。...

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  • 古丁と「大東亜戦争」 : 大東亜文学者大会と三つの作品をめぐって

    梅 定娥 日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 32 119-148, 2006-03-31

    ...作家古丁は、日本語に堪能で、「満州国」文壇の中で中心的な人物であった。本稿は、大東亜文学者大会と三つの作品をめぐって、このような古丁の「大東亜戦争」への協力姿勢を究明する。  大東亜文学者大会をめぐる言論を見ると、古丁の「大東亜戦争」への積極的な協力は第二回大東亜文学者大会の時になってからである。...

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  • <宗教>的ロジックの消長 : 長与善郎「青銅の基督」をめぐる大正期<芸術>観の断層

    西山 康一 日本文学 54 (4), 32-43, 2005

    ...長与善郎「青銅の基督」の主人公は、長与自身や彼を取り巻く大正前期の文壇の<芸術>観を象徴する、求道的な芸術家として造形されていることを明らかにし、特にその造形の中で、<宗教>的なロジックが如何なる機能を果しているかを分析する。またその主人公は小説内で、最終的に殺されてしまうのだが、そのことの持つ意味も、当時の長与らが立たされた時代状況-大正後期の文壇やそれをめぐる社会全体の動向から検討する。...

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  • 山丁の短篇小説集 『郷愁』 について

    管, 虹 現代社会文化研究 27 233-249, 2003-07

    ...山丁是活跃于伪满文坛的知名作家,在伪政府的高压政策下,他提倡乡土文学,并推出其系列实践小说集《山风》、《乡愁》、《丰年》。本文着重论述其第二部短片小说集《乡愁》,从其创作背景、小说命题的涵义、以及乡土、乡愁等关键词着手,考察《乡愁》与《山风》的内涵与创作手法的不同,并从由暗到明这一小说风格的转变中探寻山丁作为一个伪满作家的成长过程及其深刻的社会含义。...

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  • Censorship, Education, Technology, and the Colonial Taiwan Literary Field

    Scruggs, Bert M. 横浜国立大学留学生センター紀要 10 95-108, 2003

    ...本稿は文学場の基本概念に基づき、植民地台湾における文壇と文学サークルの独自の問題を、検閲、教育改革、技術革新の影響に注目して論じるものである。台湾・日本の台湾人文壇と文学サークルの言語的変化は教育制度に起因すると同時に、技術革新による印刷と流通の高速化、さらには、文学同人間のコミュニケーション手段の発達によるものである。また、検閲が出版場所や文学的内容に影響したことにも注目する必要がある。...

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  • 明治四十二年・発禁をめぐる〈文学〉の再編成 : 小栗風葉「姉の妹」を視座として

    松本 和也 日本文学 52 (6), 57-67, 2003

    ...『青春』以後主観の欠如を論難される風葉は、「姉の妹」発禁時に文壇内部から積極的に擁護される。また、同時代の発禁をめぐる言説には、多様な立場・意見からなる言説が奇妙にも社会的有用性や道徳とは異なる領域に〈文学〉を位置づけ・意味づける動きが看取される。その言説布置に改めて「姉の妹」を置く時、風葉をめぐる言説が、〈文学〉を立ち上げる言説を召喚し、その再編成の契機(結節点)として機能した様相が観察される。...

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  • 植民地の「現実」を規定する

    小沢 自然 比較文学 45 (0), 54-67, 2003

    <p> In 1889, at the age of twenty-four, Kipling abandoned his career as an Anglo-Indian journalist and “returned” to London in order to seek his literary fame there. Critics received …

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  • 劉吶鴎の『永遠的微笑』について

    張, 新民 人文研究 54 (4), 35-55, 2002-03

    ...文学者としては、1928年から1934年まで小説を11篇発表、ソ連の文芸理論家フリーチェの『芸術社会学』、日本新感覚派小説・現代詩などを翻訳しており、中国文壇に新風を吹き込み、中国での新感覚派の登場、モダニズム文学の発展に大きな役割を果たした。……...

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  • 郁達夫と近代日本について

    李 麗君 比較社会文化研究 10 47-53, 2001-10-01

    ...はじめに / 一 九年間にわたった日本留学 / 二 郁達夫と近代日本文壇及び文学者 / 三 郁達夫の近代日本認識 / 四 郁達夫の日本語 / おわりに...

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  • ミュッセとボードレールとドールヴィイ

    吉田 泉 高岡法科大学紀要 12 (0), 43-63, 2001-03-15

    ...さて,1830年に,『スペインとイタリアの物語』(Les Contes d'Espagne et d'ltalie)を引っ提げて弱冠19歳で文壇にデビューしたミュッセのこの処女作は,発表当時から,はやくも「文学によるダンディズムの標榜」という評価を評論家たちから受けていたようである。この時期は,イギリスから「伝播した」というべきダンディズムが,フランスで大きな勢いを持ち始めていた時でもあった。...

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