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検索結果 27 件

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  • 平安朝の五節舞姫 : 舞う女たち

    服藤, 早苗 埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 11 342(27)-327(42), 2011-12-01

    十世紀から十二世紀にかけて、新嘗祭・大嘗祭に舞った五節舞姫で名前や出自がわかる44人を検討した。十世紀初期は公卿層でも実子を舞姫に献上していたこと、十世紀から十一世紀中頃にかけて現存の受領層女が公卿層の舞姫になっていたこと、殿上五節舞姫は十世紀後半以降も実女の可能性が高い事、十一世紀中期以降は、大嘗祭献上舞姫叙爵が実際に行われた事、十二世紀には公卿献上者の高位の親族や近臣女性が舞姫になっていたこ…

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  • 社会で学ぶ子どもたち : 『うつほ物語』を中心に(<特集>文学/教育のなかの<子ども>)

    服藤 早苗 日本文学 59 (1), 2-10, 2010

    平安中期には、上層貴族の童たちが、童殿上を聴されて、天皇の側近として奉仕していた。『うつほ物語』では、忠こそ・正頼・花園の三人の童が殿上童だったことが確認できる。さらに、童舞をし、天皇の使者にたち、雑用をこなす仕事の様子が描写されている。天皇に寵愛された忠こそなど、数ヶ月帰宅することも許されず、奉仕していた。聡明で、容貌も良く、管弦や舞に優れていても、上層貴族層の童以外は、童殿上は許されていなか…

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  • 衾覆儀の成立と変容 : 王朝貴族の婚姻儀礼

    服藤, 早苗 埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 7 284(33)-269(48), 2007-12-01

    平安貴族層の婚姻儀礼の中に、第一夜に寝所の御帳中に臥した新郎新婦の上に夜具である衾を覆う衾覆儀がある。これは11世紀前後、天皇・東宮への入内から開始された。当初の衾覆人は、新婦の母が多かったが、12世紀になると、夫婦健在で子息が健康に育っている者や服喪中でない者等の「無憚人」へ、さらに男性とりわけ新婦の父へと変容していく。これは、男性優位の非対称のジェンダー構造が構築された社会に対応している。

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  • 平安貴族の婚姻と家・生活 : 右大臣実資娘千古と婿兼頼の場合

    服藤, 早苗 埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 5 246(59)-233(72), 2005-12-01

    平安時代の十一世紀中頃の上層貴族層の婚姻決定と婚姻生活の事例検討である。右大臣実資は娘千古のいくつかの縁談を政治的な配慮をしつつ進めていくが、皇親源師房と道長息長家との場合は破談になり、道長次妻腹頼宗息兼頼との縁談がまとまる。婿兼頼は結婚当初から実資の小野宮邸東対に妻方同居する。舅実頼は婿に経済的援助や朝廷内の儀式や職務の教授を行うなど婿傅きを積極的に行い、小野宮一家との交流にも婿を参加させる。…

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  • 戴餠 : 平安王朝社会の生育儀礼

    服藤, 早苗 埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 4 190(1)-177(14), 2004-12-01

    平安時代の中頃から、正月の初旬に三日間、幼児の頭に餅を戴かせる年中行事的生育儀礼がはじまる。二歳から女子は五歳まで、男子は嫡子七歳、庶子三歳まで行われる。まずは親王内親王や摂関家の子ども達からはじまり、十二世紀には貴族層まで浸透していく戴餅の儀式を検討する。

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  • 産養と王権 : 誕生儀礼と皇位継承

    服藤, 早苗 埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 3 184(1)-169(16), 2003-12-01

    十世紀中期に村上天皇と女御藤原安子との間に誕生した憲平親工に対して、天皇は過分の給物・鰹等のモノや乳母等のヒトを賜与する。誕生から七日間の御湯殿儀、第一日から奇数日に饗宴を張る産養等の産育儀礼が安子の父右大臣師輔の指揮のもとで盛大に行われた。憲平親王は三ヶ月後に東宮に立てられるが、壮年の村上天皇と国母太皇太后穏子によって決定されたのであり、兄朱雀上皇は皇位決定から排除された。国母が皇位継承決定権…

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