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  • 「中國武員無端生事」 -李揚才事件(1878‐79年)に関する一考察-

    望月 直人 地理歴史人類学論集 (12) 76-92, 2023-03

    ...この事件は、ベトナムの保護国化を目指 すフランスと伝統的な「天朝」と「藩属」の関係を阮朝との間にも築いていた清朝の競合に 少なからず影響を与え、後の清仏戦争につながってゆく。 では、この李揚才事件は、どのような歴史的背景から生じたものと理解すればよいだろう か。そもそも清朝の武官がベトナム王朝の末裔を名乗って蹶起するという事件は、他に類例 を見ない。...

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  • 1885年田代安定の八重山調査と沖縄県の尖閣諸島調査

    國吉 まこも, KUNIYOSHI Makomo 地域研究 = Regional Studies (10) 11-24, 2012-09

    ...その後ロシア出張から帰任した田代は清仏戦争の戦禍が八重山に迄及ぶ事を訴え、八重山運動を再開する。これは時の県令西村捨三の賛同を得、念願の八重山調査の任に付いた。この時、沖縄県周辺の無人島調査として尖閣諸島調査及大東島調査が実施された。この内大東島調査の要項には遭難した大叔父について調査する旨が記されていた。これは田代が無人島(尖閣)調査についても関わった事を示すものである。...

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  • <研究ノート>清仏戦争期における日本の対韓政策

    彭 澤周 史林 43 (3), 452-471, 1960-05-01

    一八八二年のいわゆる壬午の乱后、伊藤博文と井上馨との対韓方針は、必ずしも一致していなかつた。清国の哀世凱らは、朝鮮の事大党と結び、宗主関係をさらに増強したので、もし明治政府が積極的な対韓政策を進めれば、日清両国の衝突を招く恐れがあつた。そこで、外務卿井上は、朝鮮の独立問題に対して静観態度を持していた。ところが一八八四年、清仏両国は安南問題の失敗から、戦争状態に入つた。しかし、李鴻章は、フランスに…

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