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  • 神護寺蔵『源頼朝像』『平重盛像』『藤原光能像』の損傷の検討

    藤本, 孝一 京都産業大学日本文化研究所紀要 29 1-20, 2024-03-29

    ...神護寺には源頼朝(1147~99)・平重盛(1138~79)・藤原光能(1132~83)の肖像画が国宝に指定されている。近年、足利直義(1306~52)が寺へ寄進した古文書から、直義と兄の尊氏(1305~58)、と尊氏の子供の義詮(1330~67)の肖像画とする説が出された。本稿で頼朝は頼朝像、重盛は直義像、光能は尊氏像とする説を提示した。その理由は、頼朝像はほとんど破損がない。...

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  • (エントリー)南房総の想定ジオサイト

    吉岡 拓郎, 竹山 翔悟, 高木 秀雄 日本地質学会学術大会講演要旨 2023 (0), 45-, 2023

    ...【ジオ】 地形:白浜の海成段丘, 鵜原のリアス海岸, 嶺岡の地滑り地形 (鴨川松島) 地質:吉尾のボラの鼻 (黒滝不整合), 白浜の大規模海底地すべり露頭, 白浜のシロウリガイ化石, 太海の枕状溶岩, 保田層群のカオス層, 鋸山の向斜構造,館山の沼サンゴ層【エコ】 生態系:沖ノ島 (現在世界に生息する造礁性サンゴの北限)【カルチャー】 歴史:源頼朝上陸地の碑, 南総里見八犬伝と館山城, 赤山地下壕跡...

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  • [論文] 南九州の平泉伝説 : 「酒匂安国寺申状」と「山田聖栄自記」

    柳原, 敏昭 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 232 319-337, 2022-03-16

    「平泉伝説」とは、一二世紀の東北地方で強盛を誇った平泉藤原氏にまつわる伝説を指す。平泉で最期を迎えた源義経に関する伝説も含めることができよう。小稿では、「平泉伝説」が室町時代の南九州で語られていたことを示す史料を紹介し、あわせてその理由や背景について考察する。史料は、「酒匂安国寺申状」と「山田聖栄自記」である。いずれにも島津氏初代忠久の出自伝承が含まれ、南九州を支配するに到った経緯が記される。特…

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  • [論文] 喜界島・奄美大島から薩摩・大隅地方の中世遺跡の様相

    岩元, 康成 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 226 171-195, 2021-03-31

    ...この時期に南島との交易に関連した阿多忠景の平氏から追討や源頼朝により貴海島への征討などが起こっており,このような事件の影響が中国陶磁器の流通に反映されていることが考えられる。13世紀以降15世紀にかけて両地域間では,遺構・遺物の差異が目立つ状況にある。奄美大島の赤木名城は九州戦国期の山城と類似が指摘されているが,15世紀に九州の築城技術が伝えられたとは考えにくく,近世に整備された可能性がある。...

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  • 『源平闘諍録』における義経像

    畠中 愛美, HATANAKA Manami 名古屋大学国語国文学 113 27-42, 2020-11-10

    ...読み本系『平家物語』の一本『源平闘諍録』における源義経像について、まず従来指摘されている源頼朝・梶原景時との関係性による加筆・改変を確認した。その上で、巻八之下「一の谷・生田の森合戦の事」に見られる義経と季重の描写から、義経が他者と対立することを避ける人物として描かれているとし、兄弟関係から離れた箇所にも義経像にエ夫が見られることを指摘した。...

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  • 鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗

    佐藤 雄基 史学雑誌 129 (10), 4-34, 2020

    ...第一章では、慈円の言説が黒田俊雄の提唱した権門体制論と親和的な像であること、また、源頼朝が自らを諸国守護の権門として位置づけようとした構想とも無関係ではなかった。但し、慈円の国制像は必ずしも同時代的に共有されていた訳ではない。後鳥羽院は武芸をはじめとする諸芸能を好み、文武を包摂した君主像を追求していたし、幕府の側でも源実朝が後鳥羽院を模倣して「文」に基づく統治者意識を高めていた。...

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  • 北条時政考 ―源頼朝、北条義時・政子との関係を中心に―

    大嶽 真康 鎌倉女子大学紀要 = The journal of Kamakura Women's University 25 166-158, 2018-01

    本研究は、近年の諸研究の成果に基づき、従来北条時政の事績とされてきたものを精査し、真の時政像に迫ろうという意図を持つものである。その為に、本論考では鎌倉政権初期における北条氏の動向を一元的に見るのではなく時政とその子義時・政子の行動を分けて考えることを試みてみた。本稿は頼朝の没直後で考察を終えたが、今後さらに時代を下って考察を進めていきたい。

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  • 岡山県新見市の金売吉次伝説

    原田 信之 新見公立大学紀要 37 187-201, 2016-12-25

    ...吉次生誕地伝説のある新見市哲西町八鳥地区は源頼朝の御家人市川別当行房により築城されたという伝承がある西山城の城下町として栄えた地域で、吉次の産湯の井戸や道明寺屋敷と称される居住地の伝説がある。吉次終焉地伝説のある新見市足立田曽地区には吉次の墓と伝えられる金石さんと呼ばれる墓石があり、周辺には多数の「たたら製鉄」の跡がある。...

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  • 庭園復元される国史跡「永福寺跡」におけるAR技術による展示

    谷田部, 竜, 長沢, 可也, 荒木, 宏允, 吉川, 波輝, 山﨑, 拓平, 藤野, 秀平, 海上, 翔, 大嶽, 直樹 第78回全国大会講演論文集 2016 (1), 771-772, 2016-03-10

    ...永福寺は、源頼朝が、鎌倉幕府をつくった2年後の1194年に完成させた大寺院であるが、1405年に焼失し、現在は国史跡となっている。現在、鎌倉市は国の補助を受けて、庭園部分の復元工事を進めており、2016年3月に一般公開開始の予定となっている。...

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  • <研究資料>ポンペの日本史観

    クレインス フレデリック 日本研究 40 319-356, 2009-11-30

    ...一つ目は、ポンペが先達の日本史研究を拠り所にしながらも、幕府の成立したその過程において重要な役割を果たした源頼朝、豊臣秀吉、徳川家康という人物について当時の読者に対して多くの新しい情報と詳細な分析を提供していることである。この点においては、ポンペは従来の文献研究から離れて、日本史について直接日本人から情報収集を行っていたとの結論に至った。  ...

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  • 世界遺産登録を目指す武家の古都・鎌倉における歴史的遺産の普遍的価値

    加藤 卓司 日本観光学会誌 46 (0), 90-94, 2005-06-01

    ...1180年、源頼朝は鎌倉に武家政権を開き、武家は将軍を中心とした、幕府とい う独自の政治体制を作り、700年にも及ぶ武家政権の基礎を築いた。このような特殊な政治体制は世界歴史に類 例がない。独自の自然環境と無数の社寺が中世鎌倉の歴史と伝統の魅力を現代に伝えてきている都市は、鎌倉だ けである。また武家社会が残した武家文化と生活様式は日本人の考え方や行動の指針となり、少なからざる影響 を及ぼしている。...

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  • 成朝、運慶と源頼朝

    塩澤 寛樹 日本橋学館大学紀要 3 (0), 88-75, 2004

    ...文治元年(一一八五)に建立された勝長寿院は、源頼朝が鎌倉に建てた初めての本格的寺院であり、その後も鎌倉時代を通じて幕府に重んじられた。その本尊像制作を任されたのは、一般に奈良仏師と称される一派に属し、それまでほとんど実績の知られていない成朝であった。鎌倉幕府と奈良仏師の結びつきの発端となったこの仏師選定は、その後の鎌倉文化の展開に大きな影響を与えており、その重要性を再認識する必要がある。...

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  • 商人の遺伝子:第八回 銚子商人:作家/加来耕三 挿画/有福辰也

    加来 耕三 日経ベンチャー (194) 138-141, 2000-11

    ...十二世紀初頭ごろから、房総半島を開発し、勢力を築いてきた千葉氏は、源氏の旗上げにおいて主力軍を形成し、平家を西へ追い、ときの当主・千葉常胤(つねたね)は、源頼朝にむかって、 「要害の地、相模国(神奈川県の一部)鎌倉をこそ、拠点とすべし」 と進言したことで知られている。 関東の地に武をもって覇を唱えた一族であったが、やがてその巨大さゆえに周囲に恐れら…...

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  • 崔忠献と源頼朝

    SHULTZ Edward J Nichibunken Japan review : bulletin of the International Research Center for Japanese Studies 11 31-54, 1999-01-01

    In 1180 Minamoto Yoritomo responded to a royal prince's pleas, mustered troops in Japan's eastern plains, and so launched the founding of the Kamakura bakufu.In 1196, Ch'oe Ch'unghǒn in Korea …

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  • 源頼朝の敵討ち : 『曾我物語』の一側面

    谷垣 伊太雄 文学史研究 36 60-79, 1995-12

    一 : 平治の乱(平治元年・一一五九)で破れた源義朝が東国めざして都を脱出した時、父と行動を共にした「右兵衛佐頼朝」は十三歳であった。十二月二十八日、伊吹山麓の雪の中で父の一行とはぐれてしまった頼朝は、さ迷った後に鵜飼に助けられて、美濃国青墓まで辿り着いた。ところが、三河守平頼盛が「尾張國を給て、弥平兵衛宗清を目代に下されける」途中、青墓の宿に立寄った宗清に捕えられた。……

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  • 文治の守護・地頭問題の基礎的考察

    三田 武繁 史学雑誌 100 (1), 1-35,158-157, 1991

    ...is to say, it has been an established theory that the content of the petition to the court in November in 1185, which was made by Hojo Tokimasa (北条時政), a messenger dispatched by Minamoto no Yoritomo (源頼朝...

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  • <論説>鎮西地頭の成敗権

    大山 喬平 史林 61 (1), 1-39, 1978-01-01

    ...文治元年一一月の国地頭制の発足にともない、源頼朝は天野遠景を鎮西九州の国地頭として現地へ派遣し、遠景を通して、この地における本領安堵地頭の設置をおしすすめた。これは国地頭制下において頼朝に体現されていた諸国諸庄地頭成敗権の九州における適用である。同じ権限にもとづいて文治二年はじめに頼朝は島津庄下司職惟宗忠久の地位を鎌倉補任の地頭職にきりかえている。...

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  • 国地頭職の沿革

    義江 彰夫 史学雑誌 86 (7), 1009-1048,1144, 1977

    ...Minamoto no Yoritomo (源頼朝) dispatched his retainer Hojo Tokimasa (北条時政) to the court in November 1185 and won permission for him to control the Shogojitoshiki (荘郷地頭職) during the establishment of the Kunijitoshiki...

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  • <論説>没官領・謀叛人所帯跡地頭の成立 : 国家恩賞授与権との関連をめぐって

    大山 喬平 史林 58 (6), 789-822, 1975-11-01

    鎌倉幕府成立期の地頭の二系列(国地頭と荘郷地頭) のうち、本稿は平家没官領・謀叛人所帯跡におかれた荘郷地頭の成立を論じている。すなわち、その成立過程は⒜義仲没落後の寿永三年三月に後白河院が京都で作成した「平家没官注文」(後白河注文) を基礎にした頼朝の平家没官領惣領権の掌握、⒝元暦元年七月におきた伊賀・伊勢の平氏叛乱の鎮圧を契機とする頼朝御家人加藤太光員による「伊勢国没官注文」(光員注文) …

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