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検索結果 495 件

  • 近世大野城市域出土人骨の栄養・健康状態に関する検討:ハリス線について

    米元 史織 九州大学総合研究博物館研究報告 21 53-66, 2024-03-31

    ...lines)として定義されている.CT(Nikon X-TH320)による観察の結果,古野遺跡よりも原口遺跡出土人骨のほうがわずかにハリス線出現頻度は高く,これら2遺跡よりも瑞穂遺跡出土人骨のほうがハリス線出現頻度は高いことが明らかになった.この違いは被葬者の階層と関連する可能性がある.古野遺跡の被葬者は大庄屋を勤めた家の係累である可能性が高く,次ぐ原口遺跡の被葬者は寺子屋を営むなど大庄屋ほどではないが百姓...

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  • The Modern Image of the Central Plain in the Context of the Others

    Wang Junxiang 言語と文化 36 151-176, 2024-03-16

    ...近代の中原は日本人に与えた印象は黄麈万丈、市街衰退、旅館不潔、南京虫が多く、名勝古跡が破壊され、百姓貧弱であった。この印象が形成された要因は主に三つある。第一に、交通上の制限で、共通の旅行ルートを選択した通時空間の旅行者が記録した内容の相応性があり、中原に対するマイナスイメージが多く描写されたことである。...

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  • 萩藩殿居村庄屋文書を用いた江戸時代末期の世帯変遷復元の試み

    河田 幸視, 田中 俊郎 生駒経済論叢 21 (2), 37-104, 2023-11-30

    ...本研究は,米本位経済の下,百姓軒がどのように維持されたかの参考資料の提供を目的の1つとして,殿居村庄屋文書のうち,主に戸籍に関係する複数の史料を翻刻し,それらを相互に比較して,1826~1857年の世帯変遷の復元を試みた。その結果,潰れた百姓軒の後に,新百姓が配置されなかったと考えられる場合があるものの,分家などがあり,全体としては80軒台前半の軒数が維持されていたと考えられる。...

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  • 立山山麓芦峅寺におけるうば尊信仰の研究 ―新たに発見したうば尊像の紹介も含めて―

    福江充 北陸大学紀要 (55) 173-216, 2023-09-30

    ...その際、芦峅寺の衆徒や社人、門前百姓など、村の居住者たちの生活のなかでのうば尊信仰を、民俗学的に論じることはしていない。本稿では立山信仰の宗教組織である芦峅寺一山がそのステータスを形成していくなかで、彼らがある意味その時代の支配体制に応じて運用していたとも捉えられるうば尊信仰を、同組織の史料や江戸時代に彼らを支配していた加賀藩側の史料などを用いて論じている。...

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  • 佐竹氏秋田転封時の阿仁・比内地方の動静

    虻川 嘉久 火内 17 (0), 86-64, 2023-03-31

    ...これに対し在地の土豪や百姓などによる大阿仁・小阿仁・南比内小森の一揆騒動が起こるが、赤坂氏らによって沈静化される。慶長八年、赤坂朝光や家臣団は二井田村に移った。二井田館が比内地方統治の拠点となったことが推測される。慶長十年、赤坂朝光は十二所に移り、慶長十五年には小場義成が檜山から大館に入城した。その経緯については、『大館市史』などの記述とは若干の相違がみられた。...

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  • 序文<特集 : 「客家族群範圍的變遷 : 『再創生』與『非創生』之間>

    Hironao Kawai, 河合 洋尚 国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology 47 (2), 205-222, 2023-02-27

    ...不用說客家老百姓,連一些客家研究者―特別是客家籍學者―也以上述的通 說為前提從事客家研究。其中鞏固這種敘事基礎的學者是中國客家學之開鼻祖・羅 香林。羅香林是一位民族學家、人類學家,他在 1933 年出版的《客家研究導論》通 常被客家學者視為是客家研究的傳統典範,有時以上論述也被稱為羅香林模式。但 是,進入 1980 年代以後不少歷史學家和人類學家開始質疑羅香林的學說,並提出各 種不同的理論模式。...

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  • 石見国那賀郡七条原における新田集落の形成とたたら製鉄

    德安 浩明 日本地理学会発表要旨集 2023a (0), 38-, 2023

    ...</p><p>2.七条原の開発過程とたたら製鉄</p><p> 石見高原の一角を占める七条原に開発された田畑は,水源に恵まれない標高205~220m付近の小起伏地にある.文政3年(1820),浜田藩は甚左衛門に七条原の開墾と小割鍛冶屋の稼業を許可した.甚左衛門にとっての小割鍛冶屋は,七条原を開墾する上での労働力の確保と,百姓の入植を促す手段,そして開墾の資金源であった.約40町歩の開墾を計画した甚左衛門...

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  • [論文] 多賀城の炎上・復興と征東軍

    吉野, 武 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 232 247-275, 2022-03-16

    ...まず、多賀城の火災が律令制的な支配や国家の威光を象徴する政庁等の主要施設を中心とした点に注目し、本来は小規模な単位からなる蝦夷の部隊が呰麻呂の謀反で一斉蜂起し、国司の逃走と籠城した百姓の四散で空城となった多賀城に襲来した結果とみた。蝦夷は貴重な物品がありそうな施設に殺到し、略奪を尽くしたうえで放火したと考えられる。次に、派遣された征東軍と火災との関係、征討の経過を検討した。...

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  • アナキズム詩とネイション

    村田 裕和 日本近代文学 105 (0), 63-78, 2021-11-15

    ...猪狩満直『移住民』(一九二九年)は「百姓」を新たな理想的世界のネイションとして想像した。更科源蔵『種薯』(一九三〇年)、「コタンの学校」(一九三一年)はアイヌの声を代弁してナショナリズムを批判したが同時にそれを遂行した。詩誌『弾道』の秋山清・小野十三郎は『北緯五十度』を批判して激しい論争となる。...

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  • 学際的な手法を用いた近世後半新田開発の進展過程の復元

    熊原 康博, 岩佐 佳哉, 横川 知司, 原田 歩, 弘胤 佑, 竹下 紘平 日本地理学会発表要旨集 2021a (0), 49-, 2021

    ...前期とは異なり,両村に入植した百姓などが村内に住居を構え,水田や畑の開発に従事した。用水路や溜池の築造事業の計画は,地元の割庄屋や住民がおこない,藩にその認可を求めている。また藩から認可された事業資金は,その多くが賀茂郡内の豪農である割庄屋の寄付であり,藩や役人の出資は限定的であった。</p><p>4. ...

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  • 盛岡藩における巣鷹捕獲 : 三戸町小笠原家文書「巣鷹御用覚帳」の分析から

    中野渡 一耕 鷹・鷹場・環境研究 4 17-34, 2020-03-20

    ...巣鷹の見回りや捕獲は、巣鷹御用懸や実際に捕獲する専門の百姓のほか、肝入(村の責任者)・山守など多くの村人が動員される一大作業だった。また藩庁の指示により、捕獲の要・不要ががけ判断され、また営巣(巣懸)・孵化(貝割)・巣下げの度に代官や用人に報告させるなど、厳格な管理体制が敷かれていた。...

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  • 村落祭祀をめぐる自治会組織の役割とその歴史的背景

    石川 恵吉 島嶼地域科学 1 (0), 41-58, 2020

    ...各地の口頭伝承や歴史資料を照合していくと,彼らは百姓層の社会生活に関する指導・監督役を担う一方で,村落祭祀にも深く携わり,祭祀を滞りなく実施する役割を担っていたのである。...

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  • 明治初期・京都における屎尿汲取会社と排出量調査

    山崎 達雄 廃棄物資源循環学会研究発表会講演集 30 (0), 145-, 2019

    ...</p><p></p><p>屎尿の運搬は、明治に入ると、博覧会等で入洛する外国人の目を気にしてか、厳しく規制され、特に、明治5年(1872)の日出1時間前に限る運搬時間の制限は、百姓にとって死活問題でありました。このため、屎尿の汲取・運搬の利便を図るため、汲取会社の設立が計画され、排出量の調査まで行われています。...

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  • 徳島藩伊賀者の基礎的研究

    井上 直哉 忍者研究 2019 (2), 1-13, 2019

    ...寛延2 年(1749)には、姫路藩の百姓一揆について、現地で調査を行っている。伊賀者の家格は「徒士格」で家督相続 の許された身分であった。これは、同じく堀尾家伊賀者にも由来を持つ、岡山藩の伊賀者と同様である。他藩の忍びと比較すると、藩主の護衛や他国の探索といった、職務の共通点が見られる。その一方で、待遇は藩によって大きく異なり、徳島藩の同じ伊賀者の中でも大きな差が見られた。...

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  • 東洋文庫蔵『論語集解』正和四年鈔本の漢字音について

    鄭 門鎬 研究論集 18 11-33, 2018-12-26

    ...それに加えて,呉音や百姓読みの混入例に関しても検討する。声点については,漢音声調である六声体系の保存の度合いや,正和本と『広韻』の体系とを比較し,どれほどの齟齬があるかを調査する。また濁声点における問題について,音韻変化の反映・呉音声調の混入などを交えて分析する。...

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  • 沖縄・八重山の村落祭祀と婦人組織 : 石垣島新川の事例を中心に

    石川, 恵吉, Ishikawa, Shigeyoshi 国際琉球沖縄論集 (7) 51-66, 2018-03-30

    ...その結果、新川に2 つの婦人組織が存在する背景には、琉球王国時代に確立された身分制度が関わっており、女役者は、元来、百姓身分の婦人組織の代表職で、四役の妻は、士族身分の婦人組織の代表職であったことがわかった。また、女役者については、歴史を遡ると琉球王国時代の行政職であった女頭(ブナジィ)と繋がることを指摘した。...

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  • 『名語記』の著者経尊とその周辺 : 鎌倉中期の公武交流と西国の交通・流通

    福島, 金治 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 210 203-221, 2018-03-30

    ...記述の多い西国との関係のなかで年貢や交通・流通に関わる記述をみると、美作では百姓に鍬を賦課して納入できない場合は鹿皮で代替するのが国例とある。また、伊予石は京都市中で竈の石材とされていることがみえる。伊予石の主産地は砥石山(愛媛県砥部町外山)とみられ、そこは伏見稲荷社領山崎荘に含まれる可能性が高い。このことは本人の京都伏見稲荷社に関わる記述と符合する。...

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  • 中世京都七条町・八条院町界隈における生産活動 : 銅細工を中心に

    村木, 二郎 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 210 49-83, 2018-03-30

    ...これらを製作した銅細工とは,東寺領院町の年貢台帳類に記載された「百姓」と呼ばれる階層である。そして,発掘調査によって明らかになったのは,通りに面した間口の狭い町屋こそが彼らの工房であり,その小規模な工房の総体が大金属製品工房街の実態であったことである。これまでに積重ねてこられた発掘調査成果に加え,文献資料を併せて用いることで,中世日本の技術力を支えた職人の姿を追う。...

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  • 昭和30年代初めのダム建設と集落移転

    関沢, まゆみ 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 207 11-41, 2018-02-28

    ...村の中には貧富の差が大きかったが,富める者が貧しい者の面倒をみるという近世以来の親方百姓的な役割が村落社会でまだ活きていた可能性がある。それに対して,岩手県の湯田ダム建設で水没した集落(昭和34~35年に移転)は農家もあったが鉱山で働く人が多い流動的な集落で,代替農地の要求はなかった。...

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  • 伊賀者・甲賀者考

    藤田 達生 忍者研究 2018 (1), 16-27, 2018

    ...戦国時代において、伊賀衆や甲賀衆とよばれた戦闘集団は、伊賀国や近江国甲賀郡の国人・土豪の同名中を中核に、彼らに従属する被官衆と、百姓の傭兵集団たる足軽衆によって構成されていた。足軽衆は、独自に強力な軍事力を発揮し、他国まで出陣して攻城戦をおこなうことさえあった。伊賀衆や甲賀衆は信長に抵抗して惣国一揆や郡中惣による領域支配を維持しようとするが、甲賀衆は天正二年に、伊賀衆は天正九年に敗退して臣従する。...

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  • 摂津国東成郡鴫野村文書の紹介

    島﨑 未央 大阪歴史博物館研究紀要 16 (0), 035-059, 2018

    ...そうした鴫野村にとって大坂城内の下掃除は重要な収入源であり、一七世紀末から一八世紀初頭の掃除人足は所持高五石以下の平百姓と無高が担ったこと、請負人や他村との間で下掃除の権利をめぐる競合がみられたことを確認した。...

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  • 熊本藩在御家人のライフサイクル : 松岡忠九郎を事例に

    武井, 弘一, 丸山, 大輝, 綱澤, 広貴, 井戸, 菜摘, 新里, 翔大, 中村, 武, 古謝, 加奈子, 山田, 翔平, 吉山, 盛貴, Takei, Koichi, Maruyama, Hiroki, Tsunazawa, Hiroki, Ido, Natsumi, Shinzato, Syota, Nakamura, Takeru, Koja, Kanako, Yamada, Syohei, Yoshiyama, Moritaka 地理歴史人類学論集 (7) 37-60, 2017-03-31

    ...近世日本には百姓と武士の身分的中間に位置する郷士が存在した。諸地域により様々な名称が用いられるが、熊本藩では一領一疋や地侍などと呼んだ。しかし、寸志(金納)によって武士的由緒を持たない者が身分的中間層として取り立てられるようになると、それらを総称して在御家人と呼ぶようになった。在御家人の松岡忠九郎は大規模な農業経営を営みながらも、様々な役職を歴任し、寸志や褒賞によって次々と昇進を繰り返した。...

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  • 百姓一揆・義民研究を語る

    保坂, 智 国士舘史学 = Kokusikan-shigaku 21 9-65, 2017-03-20

    pp.63-64「研究者 保坂智のインタビューを終えて ― 凡例に代えて」堀内暢行第一回 : 二○一六年 五月一三日 : 林進一郎・堀内暢行第二回 :  同  年 六月 七日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子第三回 :  同  年 七月 五日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子第四回 :  同  年 八月 一日 : 林進一郎・堀内暢行・伊藤夏子・西村安奈第五回 :  同  年一○月一四日 : …

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  • 近世期宮崎郡における取り立てと「身上り」

    大賀, 郁夫 宮崎公立大学人文学部紀要 24 (1), 1-26, 2017-03-10

    ...近世村落には百姓身分以外に苗字・帯刀を許された郷士が存在した。本稿は日向国延岡藩領宮崎郡村々で漸次取立てられた郷士について、その取立てられた契機・処遇・勤務方等を明らかにするとともに、特に安政三年の藩財政改革において賦課された貸上銀上納に対する反対給付としての身分・格の上昇=「身上り」状況を解明することを課題とする。...

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  • 東寺領山城国上久世荘における年貢収納・算用と「沙汰人」

    史学雑誌 126 (2), 40-63, 2017

    ...近年の村落論では、中世後期における「村請」の一般的成立という見解に対する見直しが図られており、「地下請(じげうけ)」・「百姓請」などのように明確なかたちでは結実しなかったものも含めた、村共同体の年貢収納・算用への関与の実態把握が求められている。...

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  • 上州の在村剣術馬庭念流と武芸のネットワーク

    高橋 敏 スポーツ史研究 30 (0), 41-51, 2017

    ...要は 在地土豪の念流を継承する郷士と馬庭村百姓の二つの顔を持つことになった。<BR>  馬庭念流は、江戸時代初頭から四代に長命にして剣技・指導力に優れた当主に恵まれ、北関東を中心に 多くの門弟を集め、江戸にまで進出して道場を経営し、一大流派の結社に発展する。門人は百姓町人のみ ならず、高家新田岩松氏、七日市藩前田氏、小幡藩織田氏、支配領主旗本長崎氏の主従にまで門下の列に 加えている。...

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  • 敦煌佛教齋會文獻「啟請文」的神靈系統及相關問題

    Wang Sanqing 敦煌寫本研究年報 10 (1), 149-154, 2016-03-31

    ...佛教齋戒法會的第一要件必先啟請神佛蒞臨道場, 見證齋主建齋之誠心與齋疏功德, 並且也請神佛坐鎮四界, 維持道場及法會儀式的行進秩序 ; 然後在即將完成之際, 將此所建齋會功德一一迴向於諸佛菩薩, 以及各階級的生靈百姓, 更延澤於已往之七世祖先親人與所有鬼神 ; 在齋會活動即將終了的當下, 還要恭送神佛聖靈等復歸原位。...

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  • 近世天草における土地問題

    梶嶋 政司 九州文化史研究所紀要 58 177-203, 2015-03-31

    ...はじめに 一 石本家文書にみる田畑永代売渡 二 寛政五年の百姓相続方仕法 三 寛政八年百姓相続方仕法の背景と、廣瀬村の永代売渡田畑の請戻し おわりに...

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  • <論説>豊臣政権の訴訟対応 : 畿内・近国の村落出訴を中心に

    谷 徹也 史林 98 (2), 320-353, 2015-03-30

    ...当時、政権の直接支配下にあった畿内・近国社会では、給人や代官の百姓に対する非分や、村落間の用益相論が権力の相対すべき主要な課題であった。近隣の村や代官らによる仲裁では事態が収まらない場合、その解決は中央の政権に求められた。政権側は増田長盛を中心とする奉行が対応する体制を徐々に形成し、天正十六年(一五八八) 前後からは二名、文禄三年(一五九四) 前後からは三名の奉行によって訴訟を処理した。...

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  • 戦後の大分県における米軍接収反対運動

    中島 弘二 日本地理学会発表要旨集 2015s (0), 100342-, 2015

    ...「行きてゆかねばならぬわれわれにとって高原はその源である」、「いかなる犠牲を払っても死力をつくして関係町村の生命線である高原を奪われたくない」、「この町の生命は牛と堆肥です」、「百姓や牛馬を殺すな」(以上、久住高原)、「農地の完全解放を要望」、「稲の刈り入れができない」(以上、日出生台)、「農地をとらないで」(大分飛行場)。...

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  • 桐生彦部家の足利将軍家旧臣活動

    菱沼 一憲 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 182 147-164, 2014-01-31

    ...彦部家は同村の有力百姓で、村役人に任じられていた。しかし高階姓で、室町・戦国期には、足利将軍家の近習の武士として京都で活動し、戦国末期に同村へ土着したと伝える。戦国期、同地へ土着するに際し、戦国大名由良氏より広沢郷内に千疋を宛行われたという領主としての由緒、関ヶ原の合戦で旗絹・旗竿を献上したという桐生領五四ヶ村の由緒は、それぞれ村支配、絹織物産業を支える理論として機能した。...

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  • 地頭下文の基礎的考察

    高橋 一樹 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 182 29-42, 2014-01-31

    ...事例のほとんどは地方の寺社やそれともかかわる百姓身分の有力者の家に伝来しており、地域社会で機能する文書であった。下文様式のなかでの形式のあり方については、必ずしも幕府が地頭たちに発給した下文の様式を模倣したものとは限らず、幕府文書からの影響とは異なる系譜関係をも想定せねばならない。...

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  • 2世紀末タウポ火山大噴火による冷夏凶作と倭国乱

    野上 道男 日本地理学会発表要旨集 2014s (0), 100009-, 2014

    ...<br>1)氷床コアの記録: 2)中国史書の記録:3)古事記・日本書紀の記事:<br> 崇神7年は豊作だった.豊作で2年続きの「疾疫」が治ったのであるから、それが栄養失調症であったことをうかがわせる.さらに崇神12年の条には天皇が回顧して言う言葉の中に「寒さ暑さ序を失えり.疾病多に起こりて、百姓災を蒙る」とある.つまり疾疫が農と関係する栄養失調症であり、その原因は異常気象であったことがさらに明確に述...

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  • 秋田城の成立・展開とその特質(第2部 宮都と官衙)

    熊谷 公男 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 179 229-268, 2013-11-15

    ...その結果,百姓の「奥地」への逃亡や,城下の蝦夷村の収奪強化などの新たな矛盾が生まれる。これは一方で「奥地」(米代川流域・津軽地方)の社会の発展を生み出すが,もう一方で城下の蝦夷村の俘囚たちの反発をまねき,やがて元慶の乱が勃発する。...

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  • 近世・播州加古郡新野辺村における酒造稼(出稼)の展開

    羽田, 真也 市大日本史 16 55-80, 2013-05

    ...はじめに : (1)本稿の課題 : 本稿は、播州加古郡新野辺村の社会構造を明らかにする一環として、一八世紀後半~一九世紀前半の新野辺村百姓の生業のありようを概観すること、そのうえで一八~一九世紀における酒造稼(出稼)の展開を具体的に把握することを課題とする。……...

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  • 加賀藩の猿引 : ウマが結ぶ社会的ネットワーク

    武井, 弘一, Takei, Koichi 地理歴史人類学論集 (4) 3-12, 2013-03-30

    ...加賀藩の猿引は、百姓や武士の厩を祈祷する役割を果たしていた。その結果として、猿引・百姓・武士という三者のあいだで、ウマをとおした社会的なネットワークが形成されていた。眼に見えることのない、このネットワークのなかで、加賀藩の猿引は生きていたのである。...

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  • 大地の遺産としての対馬の石屋根板倉

    岡 秀一 日本地理学会発表要旨集 2013s (0), 340-, 2013

    ...これは島を郷村と府中に分け、郷村には郷士を置き給人として防衛の任に当て、少しばかりの土地を与えて自給生活をさせる一方、その他の土地は公領として村の百姓の戸数に分けて耕作させるものであった。耕地を所有する農民は、地先と呼ばれる磯で藻をとる権利や網漁権を持った。これらの農民は給人とともに本戸と呼ばれた。...

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  • 自己を発見する賤民と百姓

    木下 光生 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 169 271-290, 2011-11-30

    ...本稿は、日本の賤民と百姓が一八世紀後半~一九世紀以降、自他の身分を強く意識し出す状況を素材として、共同研究の全体テーマ「身体と人格をめぐる言説と実践」を、日本近世史研究において問うことの意義を考えるものである。...

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  • 宣講本≪躋春臺≫是不是“公安小說”?

    阿部, 泰記 東アジア研究 9 75-93, 2011-03

    ...宣講聖諭原來是宣讀聖諭、講說聖諭、但只宣講聖諭、不能吸引百姓、不能有效教化、結果出現了百姓親近的話本體案證。≪躋春臺≫是宣講聖諭時使用的白話案證集、故事情節由因果報應的道理進行。一般的公安小說重視偵探、推理、案證的冤案重視勸戒、所以包括只有天罰、没有公案的故事。但裡面的三分之二是公案故事、雖然跟一般的公安小說不一樣、我們應該承認它也是一種公安小說、不該從一般的公安小說的角度來不給它好評價。...

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  • 近世の百姓と米 -金沢平野を事例に-

    武井, 弘一, Takei, Koichi 地理歴史人類学論集 (2) 47-56, 2011

    ...小稿では、金沢平野を事例にしながら、近世中期の百姓と米の関係について明らかにした。近世の百姓が年貢として納めていた米は、これまで「米」とひとくくりにされてきた。しかし、その内実をとらえてみると、早稲・中稲・暁稲・早糯・遅糯・暁糯の6つに分類され、100以上もの品種があった。そのなかには大唐米、いわゆる赤米も含まれており、百姓は食用にするだけでなく、家や屋根を修理するために藁を用いていた。...

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  • 三河における越前鎌商いの地域的展開と豊橋(吉田)鍛冶町

    河島 一仁 人文地理学会大会 研究発表要旨 2011 (0), 39-39, 2011

    ...第二に、今立郡に残されていた昭和10年代の資料をもとに、豊橋(吉田)周辺が越前鎌商いの活動範囲に含まれていたことを指摘し、『百姓伝記』で高評価された吉田鎌の衰退に関して検討を加える。...

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  • 湿地における荘園・村落と「生業」 : 平安〜江戸前期の葦と菱(第1部 内海と生業と技術)

    山本 隆志 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 157 83-105, 2010-03-15

    ...荘園・村落に居住する百姓の生活は田畠耕作を基本としたが、それだけでない。地域の自然を自然に近い状態で利用し、生活の糧としてきた。このような地域的自然の利用・用益を「生業」と概念化し、そのあり方を歴史的にとらえようとすると、「中世史」という時代区分のなかだけで問題をとらえることは難しい。本稿では、葦と菱を事例にして、平安時代から江戸時代前期の史料に基づいて考察するものである。...

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  • 近世の百姓と煙草 -金沢平野を事例に-

    武井, 弘一, Takei, Koichi 地理歴史人類学論集 (1) 33-42, 2010-03

    ...近世の百姓といえば、田畠を耕しても領主に重い年頁を取り立てられ、自給自足で生きるためで精一杯だったと考えられている。しかし、近年、そのような百姓の暮らしの見直しが進んでいる。そこで、煙草に注目し、百姓の暮らしのなかで、どれくらい喫煙の風習が広まっていたのかを明らかにすることを課題とした。事例としたのは近世中期の金沢平野で、絵農書『農業図絵』を解読することで分析した。...

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  • <われらはいっしょにこれから何を論ずるか>

    望月 善次 日本農村医学会学術総会抄録集 59 (0), 2-2, 2010

    ...歳〕、盛岡高等農林学校を優秀な成績で得業(卒業)して、「研究生」として残ったのに、死因となった結核の徴候と考えられる体調の異変を感じ、花巻の家に帰り悶々とした頃〔大正7年=22歳〕、家出して上京し、宗教団体国柱会に賭けようとするが結局は故郷、花巻に帰った頃〔大正10年=25歳〕、「この四ケ年が/わたくしにとってどんなに楽しかったか」というほど充実していた「花巻(稗貫)農学校」の教師をやめ、「本統の百姓...

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  • 川嶋氏所蔵文書中の九戸一揆関係文書について

    菅野 文夫 岩手大学文化論叢 7-8 39-55, 2009-03-31

    ...九戸政実ら陸奥国糠部郡の領主たちによっておこされたこの一揆は,「郡中諸侍其外下々迄,京儀をきらい申内存候間」の文言によく表れているように,前年の奥羽仕置に対する百姓を含む広範な階層を巻きこんだ抵抗であり,葛西大崎一揆などと一連の,豊臣政権の全国統一に対する最後の抵抗であった。...

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  • 唐代前期律令制下の財政的物流と帝国編成(第1部 古代の権威と権力の研究)

    渡辺 信一郎 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 152 171-199, 2009-03-31

    ...軍府州折衝府からの府兵衛士上番による宿衛中央軍の編成と諸州百姓の中から上番・徴募された防人・兵募による辺州都督府・鎮・戍,軍鎮等の辺境防衛諸軍の編成とは,独自の中心―周辺構造をもつ軍事編成である。この軍事編成は,中心を構成する両京と周辺を形成する辺境とにおいて,それぞれに兵士と軍需物資の調達および輸送を必然化した。...

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  • 日本中世民衆運動の思想 : 紀州惣国の成立過程(第2部 古代・中世イデオロギーの研究)

    海津 一朗 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 152 357-370, 2009-03-31

    ...蒙古襲来の緊張のもと,異国征伐の徳政を希求する百姓の要求は,関東地頭と導御上人(唐招提寺律宗改革派)によって民衆運動に組織され,高度の河川灌漑と鍛冶工房敷設など卓抜した技術改革が進行して港湾・都市の整備が進んだ。一宮を変革実現の拠点にしようとした百姓の運動が,聖地興行により御霊宮を荘鎮守にしようとはかった領主層によって組織された時点で政治勢力としての惣国が成立したと評価されよう。...

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  • 近世対馬における城下町の空間構造

    上島 智史 人文地理学会大会 研究発表要旨 2009 (0), 11-11, 2009

    ...対馬藩士が作成した地誌書としては、府士・百姓・町人から聞き取りしたことを整理した「楽郊紀聞」[安政六(1859)年]、幕府の命により地理・歴史に関して編纂された「津島紀事」[文化六(1809)年]の2点を用いる。これらにより、城下町の風俗・雑聞・奇聞・異聞等の様子を把握することができる。...

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  • 近世神社通史稿

    井上 智勝 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 148 269-287, 2008-12-25

    ...一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。...

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  • <論説>近代移行期の地域資産をめぐる官と民 : 熊本藩領を事例に

    今村 直樹 史林 91 (6), 949-980, 2008-11-30

    ...一九世紀の熊本藩領では、会所官銭などの民政基金・備荒貯蓄が百姓の雑税から形成され、藩の中間支配機構(手永) で巨額の資産形成が進められていた。雑税の徴収は下層民に重い負担を強いる側面も有していたが、会所官銭(郷備金) は農業インフラ整備や貧農の質地請戻しなどに運用され、地域社会の成立を財源面から支えていた。...

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  • 富士山の神事と芸能(第Ⅰ部 論考 / 1. 民間宗教の中・近世から近代へ)

    堀内 眞 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 142 57-96, 2008-03-31

    ...この神楽は、下吉田の下宮(小室浅間神社)の神領百姓が構成する芝座衆に継承されてきた。中組に居住する萱沼氏は、旧来の御湯神楽に伊勢の代神楽を結びつけ湯立神楽(湯立獅子舞)を生み出した。その契機となったのは、宝永山の大噴火であろう。これ以降、噴火によって疲弊した東麓へ湯立神楽を広げてゆくことになる。...

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  • 近世・町修験の基礎的研究

    山中, 清次 佛教大學大學院紀要 36 83-98, 2008-03-01

    ...都市に生きる民間宗教者の一類としての修験は、地方の百姓から転身したものが多く、弟子入りして修験の職分を身につけ渡世した。その住居生活から見ると「地借」「店借」の修験が圧倒的多数を占める。彼らは市中に雑居し妻帯の家族を持ち、祈祷やト占の活動の僅かな収入で、下層民と同様のその日暮らしていた。そうした生活を支えたのは祈祷師的渡世である。...

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  • 農村ランドスケープの構造と変化 : 自然と人間の相互作用の移り変わり

    山本, 勝利 農業および園芸 = Agriculture and horticulture 83 (1), 143-149, 2008-01

    ...江戸時代には日本人の約8割が農民(百姓)であったと言われるが、今日、農家人口は国民のわずか1割弱に過ぎない。しかし、農村の自然が身近な存在でなくなった理由はそれだけではない。よく言われるように、農業の近代化やエネルギー革命、農村の過疎化や高齢化により、人々と自然の相互作用が変化し、その結果、農村の自然自体が大きく変貌しているのである。そこで、ここでは、農村の自然の変化とその影響について検討したい。...

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  • 「肥前杜氏」史研究総括 : 杜氏調査のまとめ

    小林, 恒夫 Coastal bioenvironment 10 1-10, 2007-12

    ...また、五反百姓、玄界灘の冬の時化の多さといった、かつての東松浦半島(上場台地)の農漁業の厳しさ、戦中期の酒造従業者不足、戦後・再編期のその過剰化、高度成長期以降のその不足化といった酒造従業員(労働力)市場の変化、そしてまた、従来の出稼ぎ・季節雇用タイプの杜氏・蔵人から通勤・年間雇用タイプヘのその変化や中高年女性蔵人(蔵女)の出現といった杜氏・蔵人の性格変化などが確認された。...

    機関リポジトリ 日本農学文献記事索引 Web Site

  • <論説>藩政改革の政治構造 : 徳島藩における藩政史認識形成

    三宅 正浩 史林 90 (4), 531-563, 2007-07-01

    ...藩政改革において、社会的・政治的状況(財政窮乏・百姓一揆等) に規定された政治課題に対して、政治権力がどのような理念でもって、どのような形態をとって対処しようとするのかという側面において、先例認識のあり方が大きく影響し、政治構造を規定した。当該時期の政治改革はまず第一に倹約・風儀統制政策として行われ、藩政の時期区分認識としての藩政史認識が形成された。...

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  • 律令国家体制の転換

    佐々木 宗雄 史学雑誌 116 (4), 512-536, 2007

    ...The momentum for the system's transformation was provided by growing ties of dependency between members of the central aristocracy and commoners to whom land had been allocated (hyaku-sho 百姓) in the midst...

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  • 四国山地における蜂須賀氏入部反対運動

    丸山 幸彦 奈良史学 (24) 79-104, 2006-12

    ...天正十三年(一五八五)の蜂須賀氏入部に対する反対運動については、阿波国百姓一揆についての研究の先駆けをなした桑田美信氏がその著『阿波国百姓一揆』で[天正度仁宇・大粟・祖谷山一揆」という項目をたて、つぎのように整理しているのが研究の出発点になっている。...

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  • 「幾世紀もの苦悩の末に、人類が辿りついた最後の言葉」 : G・ウスペンスキーの思想的立場を探る

    大山,麻稀子 Japanese Slavic and East European studies 26 149-165, 2006-03-31

    ...彼の見解によれば、農奴制時代を通してロシア農民の内部に形成された、自分では何も責任を負わない受動的な赤子精神は、農奴解放後の資本主義経済において、百姓をして無分別に他者から奪い取らせ、同時にまた、無防備に他者の搾取の魔の手にかからせてしまう。続く第三節では、農奴解放後の農村社会に対するウスペンスキーの評価付けによって、彼の思想が当時のナロードニキ思想とは一定の隔たりがあったことを論じる。...

    NDLデジタルコレクション

  • 鬮引きで決まった藩領境 : 近世初期肥後・竹田領境相論を事例に

    稲葉, 継陽 文学部論叢 86 87-123, 2005-03-20

    ...十七世紀末、相論は正保国絵図作成に際して村の百姓どうしが境目を確定できなかったために「論所」とされた久住山系の一角で発生した。しかし正保国絵図作成時に幕府大目付の指示によって熊本藩・岡藩の担当役人らが闇引きによってまったく意味のない藩領境を「決め」、国絵図に書き込んでいた事実は、「公儀の国土領有」の形式的な側面を物語る。...

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  • 近世山村における年貢帳面の成立と変容-日向国臼杵郡高千穂郷を対象に-

    大賀, 郁夫 宮崎公立大学人文学部紀要 11 (1), 1-21, 2004-03-20

    ...近世社会において、領主対百姓の基本的関係である年貢・諸役の徴収関係を明らかにすることは、幕藩制社会の性格を理解する上でも、必要かつ重要な研究テーマである。しかし、貢租研究自体は今まで必ずしも十分な研究がなされてきたとはいえず、なかでも山村における貢租のあり方は未だ明らかにされていないのが現状である。...

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  • 鹿児島城下諏訪神社祭礼の練物風流と太鼓踊り

    福原 敏男 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 114 65-88, 2004-02-27

    ...本稿は近世後期の鹿児島城下諏訪神社祭礼において、近郷百姓による太鼓踊りがどのように奉納されたかについて検討するために、『薩摩国諏訪社祭礼練物図』(東京国立博物館蔵)を紹介する。これは、七月の御射山祭礼において、谷山や桜島をはじめとする鹿児島近郊の村落が、十数日にわたって次々と太鼓踊りを諏訪神社や周辺の寺に奉納した百姓踊りを描いたものである。...

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  • 諸徳寺村永命寺末寺引直し一件(大原幽学と性学教団)

    朴澤 直秀 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 115 129-137, 2004-02-27

    ...従来諸徳寺村の百姓は、永命寺の宗判檀家であって、葬儀の際の引導は東栄寺から受ける「両菩提寺」という状況であった。だが内済の結果、諸徳寺村の百姓の大部分が、東栄寺と永命寺との双方を檀那寺とする男女別寺檀制の寺檀関係を結ぶこととなった。また、永命寺の昇格も認められた。周辺地域では男女別墓制・男女別寺檀制の存在が知られ、また、性学と、墓制の変更との関係も注目されている。...

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  • 安政期常陸国土浦町における検地 : その顚末と意義(東総村落社会史)

    木塚 久仁子 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 115 209-223, 2004-02-27

    ...天保八(一八三七)年、土浦町で起きた持合金に関する騒動で小前百姓の立場で名主らと対立した佐左衛門は町役人を罷免され、隠居後は関東取締出役の道案内として働き、安政二年の検地においては長嶋尉信に協力しもう一人の検地の立役者となっていく。同じ時期に土浦町を生きた三人の、検地への対応と論理はそれぞれの生き方と思考に基づくものであった。...

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  • 正徳・享保期における下利根川中流域の漁業と村々(東総村落社会史)

    後藤 雅知 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 115 161-176, 2004-02-27

    ...また享保期には、流域の百姓が、より高額の運上金を上納する代わりに、新たに他村の村前に地引網の網代を設定しようとする動向が強まり、三か村は倍額の網代役永や海役米を上納するとともに、旧来から一貫して村前漁場を利用してきた由緒を強調して、自村の漁場占有を堅持せざるをえなくなった。...

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  • 高橋峯次郎と七千通の軍事郵便(2. 銃後の村)

    小田嶋 恭二 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 101 211-230, 2003-03-31

    ...彼は、藩政時代から繰り返し起こる飢饉や百姓一揆の恐ろしさ、戊辰戦争の敗北により明治政府から疎外されてきた東北農村の歴史を聞いて育つ。苦学して師範学校を卒業し、教員となり村の青少年教育に情熱を注ぐが、戦争という暗い陰がいつも隣り合わせであった。日露戦争にも従軍し、戦争の悲惨さや家族に及ぼす影響を痛いほど知っていた。...

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  • 荘園制と悪党

    高橋 典幸 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History 104 135-149, 2003-03-31

    ...次に在地における悪党活動に目を向けると、荘園現地の沙汰人や名主・百姓が相互に対立している状況が浮かび上がってくる。このような在地の対立・競合状況は荘園制に通時代的に認められるものであるが、これが荘園領主権の動揺・変動と結びつくことによって悪党が出現したと考えられる。...

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